東京地方裁判所民事第六部御中





平成15年7月7日  田所 千恵子





1、私たち遺族は「百人斬り競争」の記事が元で長年にわたり苦しんできました。昭和22年12月、南京軍事裁判は、新聞記事を証拠として、野田毅、向井敏明に死刑判決を下し、翌年23年1月28日銃殺刑にしました。戦後、昭和23年はまだ大変な時代でした。60歳半ばの祖母と子供二人でどう生きていけばよいのでしょう。

一家の柱を失った家族はばらばらに預けられました。姉は佐賀県の母の実家に、私は祖母と千葉県の叔父の厄介になりました。しかも2年足らずで祖母と私の二人の生活となり、とうとう生活保護を受けました。

私は戦犯という言葉さえ知らない頃、近所で「あの子、向井という戦犯の子よ」という話を聞き、祖母に「戦犯て何?」と聞き答えに困らせました。



2、祖母は何時も私に「浅海という記者が書いた記事でお父さんは死刑になった。作り話だったのに」と悔やんでいました。私も小さい頃から時々記事を見ていました。中学3年の頃、思い切って浅海さんに手紙を書きました。「どういう気持ちであんな記事を書いたのか」と「何故嘘を書いたのか」という問いです。でも返事はきませんでした。



3、昭和46年朝日新聞に本多さんの「中国の旅」が連載され、、単行本になり、日本人の記憶になかった「百人斬り」が有名になりました。私の周囲も一気に波たちました。

家庭内では結婚前に父が戦犯で処刑された話はしてありましたが活字の威力は強烈で、私の説明は言い訳にしかすぎません。それがきっかけで毎晩口論となり次第に夫ともうまくいかなくなりました。夫は「戦争でも人を殺すのは絶対に悪い」と言い、やがて会ったこともない私の両親の悪口を言うようになり、私を「人殺しの娘」とまで言うようになりました。言葉の暴力に加え、危険を感じる暴力が始まった事もあり、子供と家を出ました。

職場でも私に「中国の旅」や「南京への道」を持参する人、遠巻きに見ている人もいましたが、「見たよ、あれ、あんたのお父さんのことだろう」「戦争だから仕方ないよ」「反論しないの」と気遣ったり、励まされたこともありました。

しかし、こういう事実を前提としての慰めや励ましで逆に瑕を深められ、苦しめられることもしばしばでした。一人一人に説明するわけにも行かず、家庭内だけでなく、職場でも辛い思いをしました。何とかしたくても自分一人ではメデイャに挑戦することはとても無理で本多さんが怖かったのです。



4、今、「中国の旅」「南京への道」の文庫本では、途中から実名のかわりにイニシヤルになりました。それでも私の周りの人たちや殆どの人々はMが向井をさすことを知っています。その上、文庫本になってから注釈が付け加えられ、父たちが捕虜をスエモノ斬りする残虐競争をしたと、ますます残虐な人間に描かれているのです。本多さんはどこまで私たちを侮辱するのか、ととても平常心ではいられませんでした。

私は百人斬りが真実ならどんなことにも耐えますが、これは嘘なのです。父たちは日中平和を願って無実の罪で家族を心配しながら処刑されたのです。それを日本の国の人たちに何度も引きずり出され、鞭打たれています。私たち遺族は幼くして一家の大黒柱を失い、やむなく違った人生を歩き、両親がいなくとも一生懸命曲がりなりにも生きてきました。



5、私は長年南京に慰霊に行っていました。南京の記念館で父たちが虐殺者として大きく飾られているのを見るのは辛かったですが、南京しか父に会える場所は無かったのです。

しかし、昨年突然ビザが下りなくなりました。

私たちは記事をもとにした出版物による報道被害を受け続けています。特に「中国の旅」などが出てから第四権力に対して恐れと無念の気持ちを抱き、「戦犯、南京、抗日、百人」などの言葉に敏感になっています。こうした常に気持ちを張り詰めた生活は今も変わりなく続いています。

父たちが百人斬りの汚名を着せられ、歴史に残るのは非常に残念です。私たち遺族にとってこの裁判は最初で最後の機会です。公正な裁判を信じ、父たちの汚名を晴らし、私たち遺族が長年の精神的苦痛から解放されることを願っています。




百人斬り訴訟トップ