歴史認識を覆す佐藤振壽氏の証言





平成16年7月12日 60期 國安 輝久





佐藤氏は91歳、昭和12年南京攻略戦に元東京日日新聞のカメラマンとし て従軍し、南京大虐殺記念館に展示されている向井、野田両少尉の写真を撮 ったまさに「百人斬り」の真実を知る唯一の生き証人である。

裁判長は被告本多と毎日新聞の反対を退け、原告申請の佐藤証人の尋問を認 め今回の証言が実現したものである。

車椅子に乗り、看護婦等の付き添いのもと出廷した佐藤証人は堂々たる態度 で法定を圧倒した。

途中休憩を挟んだものの約2時間に及ぶ緊張した法廷で、途中、血圧計が二 百を越し、看護婦が原告代理人に証人尋問の中止を提案したほどであったが 佐藤証人は最後まで尋問を続行することを望まれ、南京戦の真実を知る者の 責務を見事果たされたのである。その姿は法廷にいるすべての者に感動と勇 気を与えた。

裁判長も佐藤氏の健康を気遣い色々と細かな配慮を示し、本多の代理人が南 京城内の捕虜処断に質問を拡大しようとし、原告代理人が異議を述べたこと について、本多の代理人の質問を制限するなど見事な訴訟指揮により、佐藤 氏の主尋問、反対尋問を時間内に収めた。

佐藤証言の主なるものは次の通りであった。紙面の都合で細部を省略し、重 要事項だけをご報告する。






1. 無錫で両少尉に会っていない、常州で浅海記者に両少尉の写真を撮るよ うに頼まれ、太陽光線を考えて常州城門の側で写真撮影した。 (註・これが現在も残っている有名な両少尉の写真である)

2.両少尉はこれから(つまり常州から)百人斬り競走を始めると話していた。

3.両少尉が当番兵を取替えっこして斬った中国兵の数を数えると聞いたが、 信じなかった。(本多の代理人の執拗な反対尋問に対し)新潮で私が納得し たように書かれているが、断じて納得していない。そのように書いたのは新 潮の記者であって私は納得していない

4.翌年の昭和13年上海で「百人斬り」の記事を見たが「嘘っぱちを上手 く書いたな」と思った。

5.当時日本軍は苦戦していたので大隊副官と歩兵砲小隊長が第一線で刀を 振り回してチャンバラをするような戦況ではなかった。そもそも南京戦は近 代の銃撃戦でチャンバラではない。

6.殺人ゲームとか上官からの命令という話は二人からも聞いていない。

7.戦後浅海氏が東京裁判に呼ばれた時に「嘘だ」と一言言えば良かったのだ。 自分も呼ばれるかもしれないと浅海氏から聞いたが呼ばれなかった。

8.陸軍の検閲があったが戦意高揚の記事ということで、法螺話を通してし まったことにも責任がある。

9・南京軍事法廷に自分が撮った両少尉の写真が提出され、これが証拠とな って二人は銃殺されたが遺族に対して本当に申し訳ないと思っている。

10.現在南京大虐殺記念館に私の撮った二人の写真が虐殺の証拠として展 示されていることに腹が立って中共政府と喧嘩をしたいくらいだ。

11.この問題について私に何の取材もせずに「百人斬り」を書いた本多勝 一と朝日新聞はジャーナリズムとして失格である。





概要以上の通り明快にしっかりと証言された。証言前に今まで保存してい た同氏の南京戦従軍当時の日記を証拠として裁判所に提出した。

佐藤証人の証言は首尾一貫しており、相手側代理人の質問に対しても少しも 臆することなく、きっぱりと、法螺話であると断言されたのが印象的であった。

なお、本年4月号に「浅海記者は北京勤務した」と記載したが佐藤氏から 「浅海氏が北京に行ったのは毎日退職後である」とのご指摘がありましたの で、遅くなりましたがお詫びして訂正します。

佐藤氏の速やかな健康回復とご長命を祈念致し、佐藤さんの勇気ある証言に より、「百人斬り」訴訟前半最大の山場を成功裡に終了出来た事を深く感謝 致します。



  次回第7回は9月6日午後1時半








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