大東亜戦争
敵、味方リーダーの戦後の証言
――― マッカーサー・毛沢東・東条英機 ―――




英霊にこたえる会中央本部
運営委員長
 倉林 和男







話には聞いていたが、戦後、かつてわが国と友好的関係にあった、南京国民党政府の汪兆銘の墓が爆破され、さらに、後ろ手に縛られてひざまずく銅像がつくられ、これに唾などがかけられているということである。

平成十六年一月十日、中国共産党機関紙「人民日報」の日本語版インターネットは、海南島の某ホテルに、汪兆銘と同様な東条英機大将・首相の軍服姿の銅像が出現し、首を幾重にも縄で縛り上げ、その胸元には「日本のA級戦犯東条英機 中国人民に謝罪」と書いた板をつるした写真を掲載した。

これは何んたる非道であろうか。国際儀礼も何もあったものではない。

墓を暴き、死者に鞭打つという中国人のこの所業は、われわれ日本人には到底理解できない。

ところで、馬鹿の一つ覚えのように、東條さん一人を極悪人のように名指ししているが、東條陸相が昭和十六年十月十八日に首相となり、その五十一日後に大東亜戦争開戦のやむなきに至ったその段階では、実質的に大東亜戦争の前哨戦となった、昭和十二年七月七日の盧溝橋事件、その後の支那事変が勃発してからすでに四年余が経過しており、東條首相を云々するのは、お門違いもはなはだしい、歴史認識に欠ける難癖ということができる。




ダグラス・マッカーサーの証言



東條首相ら二十八名を侵略戦争の首謀者として裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)の最高責任者であったマッカーサー元帥は、裁判が終って二ヵ年も経たない朝鮮戦争最中の昭和二十五年十月十五日、トルーマン米国大統領とウェーキ島で会談した折りの発言が、後述する昭和二十六年五月三日の米国上院での証言時に公表されたが、

翌四日付の朝日新聞は、〈戦犯裁判には警告の効なし マ元帥確信〉の見出しの下に「ワシントン二日発UPI共同」として、

〈米国上院軍事外交合同委員会が二日公表したウェーキ島会談の秘密文書のなかで注目をひく点は、マ元帥が次の諸点を信じているということである。
一、マ元帥はハリマン大統領特別顧問から北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた。(後略)〉

また、同一の内容を報じた

同日付の北海道新聞は、〈東京裁判は失敗〉の見出しで同じワシントン発として

〈米上院軍事外交合同委員会は二日トルーマン大統領およびワシントン当局者とマッカーサー元帥のとの間に行われた歴史的なウェーキ島会談の秘密文書を公表したが、その中で注目をひく点はマ元帥がつぎの諸点を(一字不明)○じているということである。

一、極東軍事裁判は誤りだった。(後略)〉

さて、このウェーキ島会談は、この年の六月に勃発した朝鮮戦争をめぐっての会談であったが、その後作戦方針についてのトルーマン大統領とマッカーサー元帥との間に対立が生じて翌昭和二十六年四月に解任され、その帰国直後の五月三日から五日の間に、元帥を証人として、米国の極東政策をめぐって開かれたのが、この上院の軍事外交合同委員会であったのである。

五月三日の朝日新聞の報ずるところによると元帥は、

〈太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える。〉

そして、最終日の五月五日には、

〈(前略)潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けてゐる時よりも、働き、生産してゐる時のほうがより幸福なのだとゐふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。

これほど巨大な労働力を持ってゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。

日本は絹産業以外は、固有の産業はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。

もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万か一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。〉(東京裁判日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」 小堀桂一郎編 講談社学術文庫)

連合国軍最高司令官として、当初マッカーサー元帥に与えられた対日占領政策は、日本が再び米国の脅威とならないことを確実にすることであり、そのために彼らがいう軍国主義、超国家主義の影響力を排除することにあった。

まず、即時実行に移したのが、日本陸海軍の物理的解体、武装解除であり、つぎに手掛けたのが、日本国民の精神的武装解除、日本の戦前、戦中を悪とする洗脳であった。

しかし、そのマッカーサー元帥は、自ら朝鮮の戦場に立つことによって、過去にわが国が直面した北からの脅威、共産主義への認識をあらたにし、彼の五年八ヶ月に及んだ占領政策の過ちを認め、かつ、言外に東京裁判の誤りと支那事変、大東亜戦争を侵略戦争としたその非を自認したのである。




毛澤東主席の証言



昭和六十年八月十五日、時の中曽根康弘首相が靖國神社に公式参拝したことが契機となって、いわゆる「A級戦犯」合祀をめぐっての中・韓両国の内政干渉が続けられ、揚句の果には前述した東條首相の銅像の出現までに至っている。

ところで、今日もなお中国建国の父として、北京・天安門にその肖像画が掲げられている毛澤東主席は、日本軍に感謝の言葉を述べているのである。

一九六四年(昭和三九)七月十日、日本社会党の佐々木更三委員長を団長とする訪中団が毛主席と人民大会堂で、二時間四十分にわたって会談したとき(抜すい)

〈主席――わたしは、かつて、日本の友人(注1)に次のように話したことがあります。かれら(注2)は、日本の皇軍が中国を侵略したのは、非常に申し訳ないことだ、と言いました。わたしは、そうではない!。もし、みなさんの皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は、団結して、みなさんに立ち向かうことができなかったし、中国共産党は権力を奪取しきれなかったでしょう、といいました。ですから、日本の皇軍はわれわれにとってすばらしい教師であったし、かれら(注3)〔その友人のこと〕の教師でもあったのです。(中略)

佐々木――今日、毛主席の非常に寛大なお気持ちのお話をうかがいました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、みなさんに多大の損害をもたらしました。われわれはみな、非常に申し訳なく思っております。

主席――何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです。この点で、私とみなさんは、意見を異にしており、われわれ両者の間に矛盾がありますね。(中略)

主席――過去のああいうことは話さないことにしましょう。過去のああいうことは、よい事であり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。(中略)

主席――われわれはなぜ、日本の皇軍に感謝しなければならないのでしょうか?

それは、日本の皇軍がやってきて、われわれが日本の皇軍と戦ったので、やっとまた蒋介石と合作するようになったことです。二万五千の軍隊は、八年戦って、一二〇万の軍隊となり、人口一億の根拠地を持つようになりました。感謝しなくてよいと思いますか。(後略)〉(「毛澤東思想 万歳」下 訳者・東京大学近代中国史研究会 三一書房)

なお、前記注1・2・3の〈日本の友人、かれら〉とは、戦時中に軍需省航空兵器総局長官であった遠藤三郎陸軍中将が、佐々木委員長が訪中した八年前の昭和三十一年十一月二十八日、毛主席と会談した折りのことを指しており、この発言は、かつて政界の黒幕と言われた久原房之助氏にも語っているとの説もある。

この毛発言は、単なる社交儀礼ではなく、主席の確信であり、このことを裏付けることとして、蒋介石総統は、自著「中国のなかのソ連」(訳者・毎日新聞外信部 毎日新聞社)のなかで、次のように記している。 〈一九三七年秋、朱徳が第八路軍をひきいて陝西省北部から戦線に出動したとき、毛沢東は部隊に対し次のように演説した。

(一)中日戦争は中共発展の絶好のチャンスである。我々の基本政策は全力の七分を中共の発展に二分を国民政府との対抗に、残りの一分を抗日に使用する。

(二)この政策は次の三段階に分けて実施する。第一段階では国民党と妥協して中共の生存と発展を図る。第二段階では国民党と勢力の均衡を保ち、彼らと対抗する。第三段階では華中各地区に進出して根拠地を築き国民党に反攻する。

同年十月中共”中央政治局”の”抗戦の前途と中共の路線”についての決議は、さらにその具体策を次のように決めている。(中略)

(三)中国の政治で決定的な要素は武力である。抗戦の過程中できる限り党の武力を拡大し、将来政権を獲得する基礎とする。

これが八年の抗戦中、中共のたどった路線であるが、彼らには最高の指導者がいた。ソ連の首領スターリンがそれだ。しかもソ連の利益はいつも中共の利益より重視された。〉

このように見てきた場合、支那事変の発端となった盧溝橋事件の背景に何があったかを、物語っていると言うことができる。




東条英機首相の証言



昭和二十二年十二月二十六日、東條元首相は、東京裁判の証人台に立った。そのタイプで二百二枚に及ぶ口述書が、ブルェット弁護人によって朗読され、その最後を次のように結んでいる。

〈終わりに臨み――恐らくこれが当法廷の規則の上において許される最後の機会であろうが――私はここに重ねて申し上げる。日本帝国の国策ないしは、当年、合法にその地位に在った官吏のとった方針は、侵略でもなく、搾取でもなかった。一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法および法律に定められた手続きに従い、事を処理して行ったが、ついに我が国のかの冷厳なる現実に逢着したのである。

当年、国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つということが唯一残された途であった。我々は国家の運命を賭した。しかし敗れた。しかして眼前に見るがごとき事態を惹起したのである。戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任いかんの問題とは、明白に分別のできる二つの異なった問題である。

第一の問題は外国との問題であり、かつ、法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国が本戦争を為したことをもって国債犯罪なりとして、勝者より訴追せられ、敗戦国の適法な官吏たりし者が個人的な国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えたこととてない。

第二の問題、すなわち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するものである。〉(「秘録・東京裁判」清瀬一郎 読売新聞社〉

ところで大東亜戦争は、戦いに敗れたが、戦後かつて欧米の植民地であったインド、ベトナム、カンボジア、ラオス、フィリッピン、ビルマ、マレーシア等々の国が、次々と独立した。

マッカーサー元帥は、その大東亜戦争をわが国の自衛戦争であったと証言し、毛主席は、支那事変のおかげで今日の中国があると日本の皇軍に感謝の意を表している。

私達は、いたずらに反日自虐史観に落ち入ることなく、今日あらためて過去の真実の歴史とは何んであったのかを静かに振り返り、検証すべきなのである。





平成十六年三月十八日

英霊にこたえる会たより第39号









平成16年4月1日 一木会にて配布された資料より


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