南京戦跡見聞録





某旅行社が企画した「南京戦跡視察旅行」に、平成十一年十月八〜十三日の日程で参加した。

同行者は昭和史研究所を主宰しておられる獨協大学教授中村粲先生・防衛研究所戦史部調査員の原剛先生を含めて十六人。支那戦線で実際に戦った人が多いかと思ったが、大正十五年生まれの陸士在学中が最年長、予科練出身の私が二番目、最年少者は昭和四十二年生まれで、職業は中学校の教師・現議会議員・工務店経営者・地方公務員・商社員等バラエティーに富んで居て、何れもいわゆる三十万人南京大虐殺に懐疑的な人達で、共通して言える事は書物をよく読んで非常に勉強していて、思考停止状態の人でなく自分の頭で考え判断ができ、有ったことは認めるが無かったことは認められない、とする人達であった。



成田と関空から搭乗して上海に集結、一泊して上海の戦跡を視察してから、十四時上海站(駅)出発、軟座席車で南京站に十七時到着。

第一印象は「暗い」「やたら人が多い」だった。特に硬座席車への乗車を待つ人の群れには驚いた。

翌日朝、まず南京南西郊外の雨花台近くの「侵華日軍屠殺遭遇同胞記念館」視察、正面入口の門柱に「愛国主義教育基地」の看板が三枚も掲げられていた。ここは、日本軍の手で中国人が虐殺されたという中国の主張におもねる当時の社会党が援助して建設した広壮な施設で、映像資料や証拠物件と称する物を大量に展示していたが、何れも厳密な検証に耐え得るものではないとの印象を持ったし、そんな説明もあった。

ここに献花した花輪のリボンが残されていたが、村山富市や野中広務の名が読み取れた。

この記念館の他に「虐殺記念碑」が各所に建てられているらしいが、その内、揚子江岸の下関と草鞋峽と東部埋葬地の三ヵ所を視察したが、何れも一九八五年(昭和六十年)以降に建てられていた。文化大革命が破綻して国内体制の引き締めを迫られていた時で、国内の不満を外向きに解消する必要に迫られていた時期に合致する。

こうして日本への反感を醸成して、反日で国内の結束を図りながら、一方でODA援助を受けとる時や、あとで述べる城壁修理の時には、中日友好を唱える意図は、余りにも見え透いているではないか。



ドイツ人武器商人で長年南京に居住していて、中国政府に取り入る為に事後に事実を曲げて日記を書き直して、日本軍の非道を宣伝したジョンラーベが委員長をしていた安全区本部跡や、避難民に紛れ込んだ便衣隊が隠れていた金稜女子大学は健在、支那派遣軍総司令部の在った建物は南京軍区の招待所(保養所)に、東二郎元一等兵が自分の懺悔録として出版した「わが南京プラトーン」に、上官の残虐行為として実名で書いて、それが全くの虚偽であるとして名誉棄損の有罪判決を受ける因となった最高法院の建物も健在。蒋介石が逃げ去った後、汪兆明が臨時政府を樹立した国民政府跡は、今も行政府の中心的存在であるらしく門番が立番していた。

その他当時の色々な施設として使われた建物が、用途は変わっていても、何れも当時と余り変わらないらしい姿で残っていた。

南京市北東部の玄武湖に面した鶏鳴寺近くの『城壁博物館』のそばに、日本人が募金しボランティアで修復したという城壁があった。ここは日中友好協会会長の平山郁夫画伯が働きかけ、NHKが平成七年五月廿四日に「日本軍が戦争で壊した城壁を修復して心の傷も直しましょう」と呼びかけたのを真に受けて、夏休みを利用して社会人や学生が汗を流して修復した場所だ。ところが実は日本軍が砲撃して突入路を作ったのは十数箇所程度で、城壁が根こそぎ吹き飛ばされる訳がなく、城壁が無くなった部分は都市開発のために中国政府自身が撤去したものなのだ。

そしてこの場所は、すぐ前に玄武湖があるので突入不能の場所で砲撃する訳もなく、中国人通訳は「焼きの悪かった煉瓦が水を吸って凍って崩壊した部分を、観光開発のために修復するのを協力要請したもので、日本軍が壊したところだ、とは決して言っていないはずで心外な話だ」と言っていた。

日中友好を言いながら、事実が明らかになった場合、それに反する結果を呼ぶこんな虚偽の報道がなされているのに、多くの人が全く気づいていないのを、現地を見て話を聞いて実感した。そして通訳に調べてもらったが、「日本人がボランティアで修復した部分だ」という表示はどこにも無かった事を付記しておく。




西川 晃男



平成12年10月25日 戦友連381号より


【戦友連】 論文集