日本軍の軍紀は世界一厳正だった




赤堀 光雄




日本軍の軍紀に就いては、北清事変(義和団事件)当時にも欧米列強から賞賛され、各国軍隊の模範とされたことがあるが、かつて我々が中国戦線を征ったとき、その先々で中国民衆から熱烈歓迎を受けたのも、それは故なきことではない。

そんなことを知ってか知らずか、いわゆる戦後の進歩的文化人と称する売国奴どもは、日本軍の残虐行為なるものを捏造して、繰り返し繰り返し己の母国を罵倒しつづけているが、外国人(台湾)の評論家黄文雄氏は、次のように正鵠を射た卓見を述べている。

黄文雄氏の言によれば、事実は全く正反対で、日本軍はいつでもどこでも軍律厳しく、しかも人間性豊かであった。それに対して中国軍は残忍極まりない武装集団で、今なお彼らは自国民に対する飽くなき収奪と虐殺を繰り返している。それは中国四千年の動乱の歴史の連続であり、伝統ともいうべき不幸な現実である。

日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍に(おも)ねたり恐れてのことではなかったのである。

フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火(あぶ)りにされたり、(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。

フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、

「日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり」

と絶賛し、中国軍の暴虐蛮行については次のように記している。

「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。」

北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、賞賛されたことは冒頭に述べたが、その事実の証として次のような事があった。

天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。

また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。

これらの事実は、ウッドハウス・映子の『北京燃ゆ』やジョージ・リンチの『文明の戦争』等に記述されている。およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いだ日本軍は、近代戦の戦場に於ても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。

そして日本政府は、在日中国人に対しては戦時中と雖も国際法を守り、彼らの生命財産を守ったのであるが、在中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起こるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けつづけたことは、日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である。

さて、これらの事例は、外国人の見聞記であるところに大きな意味と価値がある。日本人の自画自賛では決してないのである。日清戦争から大東亜戦争に至る聖なる戦いを、日本人でありながら臆面もなく、総て侵略戦争なりと言い切る「似て非なる日本人」よ、もって如何となすや。




赤堀 光雄






(編集後記)北清事変について





一九世紀の後半、中国(支那)は当時清王朝の時代だったが、次第に押し寄せる西欧諸国の侵攻に手を焼いていた。そんな中、一八九七年(明治30年)ドイツが突如として山東半島の膠州湾(青島)を占領し、ロシアが遼東半島の旅順、大連に進出するに及んで、清国内の排外気運は頂点に達した。その排外運動の先頭に立ったのが『義和団』(清朝初期から華北に広がっていた白蓮(びゃくれん)教という土俗宗教系の秘密結社)である。

「扶清滅洋」をスローガンとした義和団の暴動は急激に勢力を増し、一八九九年には山東、河北両省を席捲し、翌一九〇〇年(明治33年)四月には北京を占領した。

これを機に、清朝は義和団を利用して列強を抑圧すべく、列強に宣戦を布告した。

同年六月十一日には日本公使館書記生杉山(あきら)が殺され、同月二十日にはドイツ公使ケトラーが殺された。

が、外国側は手のくだしようもなかった。諸外国は公館を砦として籠城し、救援軍を待った。だが諸外国は本国が遠く、大軍の急送は望めない。結局は英・米等の強い要請によって、日本が最も多くの軍隊を派遣することになり、広島の第五師団の一部が出動した。これを日本では「北清事変」という。

この北清事変で連合軍を組織したのは英、米、仏、伊、墺、露、日、の八ヶ国。総兵力は二万余。日本、次いでロシアの軍隊が主力であった。八月十四日には北京に入城して各国公使館員や居留民を救出した。


司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』の中で、当時の連合軍の様子について次のように書いている。

『連合軍は、キリスト教国の側からいえば、いわば正義の軍隊である。しかし入城後に彼らがやった無差別殺戮と掠奪のすさまじさは、近代史上、類を絶している。彼らは民家という民家に押し入って掠奪のかぎりをつくしたばかりでなく、大挙して宮殿に踏み込み、金目のものはことごとく奪った。ロシア軍に至っては、司令官のリネウィッチ将軍みずからが掠奪にくわわった。

「これは風説ではなかった。私はその後、北京駐在の財務官ポコチロフから非公式に情報を受けとって、その風説が事実であることを知った」と、ロシアのウィッテ(大蔵大臣)はいっている。

ただし、日本軍のみは一兵といえども掠奪をしなかった。北京占領後、各国が市内を幾つかに分割して警備を担当したが、日本軍の担当地区ではいっさい掠奪暴行事件は起こらず、避難していた中国人もこれを聞きつたえて続々と戻って来、復興がもっとも早かった。』

以上


平成12年10月25日 戦友連381号より


【戦友連】 論文集