歴史の重みを肌で感じたフランスの旅
―――今に残る古代ローマ帝国の残滓―――





去る十月三日成田を発ち、同十四日帰国の、フランス周遊熟年ツアーに、老妻にせがまれて共に参加した。今回の旅の起点のニースは、世界的保養地として余りにも有名。シーズンオフで海岸に人影を見ることはなかったが、その隣のモナコ公国の高台にある王宮広場からの眺望は、眼下に各国の富豪の所有する大小様々のヨットが港を埋め尽くし、西に連なるコート・ダジュールの海岸は紺碧の地中海を縁取り、まさに一幅の絵そのものであった。

モナコは南北に七百メートル、東西三キロメートルで、総面積は二平方キロメートルの小国で、人口は三万人、国連にも加盟している独立国で、王宮護衛の衛兵交代は、規模こそ小さいが英国のバッキンガム宮殿同様、華麗で観光客の人気の的となっている。また自動車事故で亡くなられたグレース・ケリー王妃のお墓は、教会の枢要な一角を占め、慰霊の供花に飾られていた。

さて、次いでマルセーユを経てプロヴァンス地方の観光に向かったのだが、この日からのガイドさんは、フランスの大学を出てフランス人と結婚した経験豊かな焼津出身の日本の女性で、その説明を理解するためには、フランスの歴史の事前勉強が絶対に欠かせなかったが、もともと西洋史などには殆ど興味を持っていなかった私には後の祭りで、アヴィニョンやアルルで目にした古代ローマの遺跡に驚嘆し、今更ながらローマ帝国の興亡に大きな関心を抱かざるを得なかった。そこで、俄の付焼刃であるが、帰国後フランスの歴史の概要を頭に入れ、観光時の情景を思い浮かべつつ、これからその見聞録を私の理解した範囲内で筆を進めることをお許し願いたい。


紀元前七世紀頃建設された都市国家ローマは、その後発展を続け、紀元前二世紀頃にはギリシャをはじめ地中海一帯を征服し、プロヴァンス地方もその属州となった。その後百年間でフランス全土がローマ帝国の支配に屈した。その征服に猛威を振るったのが、ジュリアス・シーザーといわれている。当時この地方はガリアと呼ばれ、その原住民は多神教を信ずるケルト族であったが、ローマの支配下で、その言語はケルト語と駐留するローマの兵隊の話す口語ラテン語とが組み合わされ、更にその後ゲルマン民族の大移動で五世紀に西ローマ帝国が滅亡、それに代わってヨーロッパの覇者となったのがフランク王国であり、そのゲルマン民族の一つであるフランク族の言語が交じり合って、現在のフランス語(オイル語)が出来上がったとのことである。

ローマ帝国が滅びた原因の一つに、ローマ人の兵隊が帰国を望み、現地の傭兵に警備を任せたとの説が有力であるが、わが国の現状を顧みて思わず背筋に寒気を覚える。

フランク王国は、八百年にカール大帝が即位し黄金時代を迎えるが、その二世代後の九世紀に三分割され、西フランクが現在のフランスの領地の基となった。


マルセーユは紀元前六百年にギリシャ人が建設した港町で、現在は人口七十万人でフランス第二の都市で、交通の基地として繁栄している。その北方に位置するアヴィニョンは、ローヌ河に突出した要害堅固な城塞都市で、二千年の歴史に恵まれているが、特に重大なことは、十四世紀に法王庁を自分の支配下に置きたいとのフランス国王フィリップ四世の意志で、約七十年の間、この地がローマに代わって法王庁の所在地となって、壮大な宮殿が建てられ、中世ヨーロッパで屈指の華やかさを誇ったことである。しかし現存の建物は、革命時の損傷・破壊やその後の兵舎用に供用されての変容等を、一九六九年に同市が改修したもので、よりモダンな会議センターとなっている。

ゴッホの『アルルの跳ね橋』で有名なアルルは、ローマ時代には歩道付きの大通りや、劇場、闘技場、大理石の公衆浴場等があり、『ガリア人のローマ』と呼ばれ繁栄したが、四八〇年に西ゴート族の手に落ち、更にその後二度にわたりサラセン人の侵略をうけて荒廃し、九世紀には殆ど廃墟と化した。劇場や公衆浴場の廃墟ぶりは見るも痛ましいが、ローマのコロセウムより古い時代に建てられた闘技場は、アーチが連続する二層式アーケードなどがよく残っている。現在でも、夏から秋にかけて闘牛が見られるとのことである。

プロヴァンス地方で、ローマ時代の遺跡として触れなければならないもう一つは、『ポン・ドュ・ガール』である。これは紀元前一九年に造られた水道橋で、水源地からニーム(アヴィニョンとアルルの中間点)に水を運んだもので、高さは四九メートルで、上中下と三層のアーチ橋で、素材はモルタルやセメントを使わずに、六トン余りの巨大な石塊をから積していったもので、その技術の水準の高さに驚かされる。その他、平野の真中に忽然と立つ二八〇メートルの岩山を自然の要塞として、戦いに明け暮れていたポー城や、エクサン・プロヴァンスのミラボー通りなど話題は尽きないが、この辺で旅程を前に進めよう。


アルルの町から海岸線に沿って西南に走り、そのまま真っ直ぐ進めばスペインのカタールニヤ地方バルセロナに出るが、途中から右折して西北進すれば、ランドック地方の中心都市トゥールーズに通じ、その途中に典型的城郭都市カルカッソンヌが待ち受けている。

この地はピレネー山脈の入口で、スペインからロアールにかけた長年の異民族抗争の道筋に当たり、既に紀元前二世紀には、ローマ人が先住族の築いたものを引き継いで中程度の砦を築いていたが、ローマ帝国滅亡後、西ゴート族、サラセン人、フランク人、封建領主とその領臣、更にはフランスの王家も夫々この城塞都市の築造に貢献し、この町は、いわばローマ時代から一四世紀までの、各時代の全軍事建築様式を語る石造りの書物のようなものである。事実、後世の軍事評論家は、この城塞は一六世紀までに編み出し得たすべての防御設備を完備していたと評している。

ローマ人は、先住民のキリスト教への改宗・布教にも熱心で、各地に聖職者を駐在させ、当該地方の改宗状況を監視督励させた。聞いた場所は何処であったか思い出せないが、前述の優秀なミセス・ガイドの説明に次のような話を耳にして、大いに感動した。それは、或る領主がローマの法皇庁の命に何度も背いたため、遂に討伐軍を差し向けるとのローマからの指令が届けられたとき、「自分の命は差し出すから領民は絶対に守って欲しい」と嘆願したとのことである。


ここで又暫く、西フランクを引き継いだフランスの王朝の変遷を簡単に辿ってみたい。第一王朝は、九八七年に断絶したフランク王国のカロリング朝を継いだカペー王朝で、一三二八年まで存続、この間封建社会が逐次確立されて行くが、王権はそれほど強力ではなく、諸候がそれぞれの領地を治めた。その王権を確固たるものにしたのがフィリップ二世(一一六〇〜一二二〇在位)で、選挙制だった王位を世襲制にして、中央集権体制の基礎を作った。フィリップ四世(一二八五〜一三一四在位)の時代に王位継承について定めた王国基本法が作られ、貴族・僧侶・平民の三階級で組織された三部会が招集されることとなった。王位は血統による世襲で、女性は王位にはつけなかった。従って直系の男性が不在となったときは、傍系の血の繋がりのある男性が王位を継承した。

かくして第二王朝はヴァロワ王朝(一三二八〜一五八九)となり、その中でフランソワ一世(一五一五〜一五四七在位)はフランス・ルネッサンスの気運を主導し、香り高い文化の華を咲かせた名君と称えられている。

血で血を洗う王家内の紛争の末、カペー家の血をつぐアンリ四世が第三王朝ブルボン朝(一五八九〜一八三〇)の始祖となり、一五九八年、有名な「ナント勅令」を発して三十数年続いた宗教戦争の内戦を終結させ、その内戦で疲弊した貴族の上に乗って王権を強めた。絶対王制の始まりである。『太陽王』ルイ十四世(一六四三〜一七一五在位)は、全ての権力を自らの手に収め親政を行い、国内外に辣腕を振い、フランスの黄金時代を築き上げる。


この間、ノルマン族はしばしば北フランスに侵入していたが、一〇六六年のノルマンディ公爵は英国のブリタニカを侵略し、遂にアイルランドを除く英国全部を征服した。この時ブリタニカに追われていたケルト族は、再びフランスの北東部ブルターニュ地方に移り帰り、現在でもブルトン人として独特の文化に生きている。

かくて英国の国王はフランス国王と血縁関係にあり、一三三七年から一四五三年まで続いた英仏百年戦争は、王位継承をめぐる衝突が原因といわれているが、その実、当時毛織物の主生産地であったフランドル地方の争奪戦との見方があり、これが真相ではなかろうか。何時の世も経済権益の争いが主たる戦争の原因であることは、現在とても変わらない。

当初カペー王朝の領地はイル・ド・フランスと呼ばれるパリーを中心とする半径百五十キロの地域と、その南部の都市オルレアンを含むほんの僅かの土地に過ぎなかったが、その後十八世紀末までには、或は戦いにより、或は政略和議等により、殆ど現在のフランス領土まで拡大して、篠沢秀夫学習院大学教授の説では、近代国民国家を実現させたのは、フランスが一番早く、次いで日本が二番目だという。


ルイ一六世の圧政に反抗した新興のブルジョアジーの動きは瞬く間に全国に波及し、フランス大革命となり、ルイ一六世も王妃マリー・アントワネットも、相次いでコンコルド広場の断頭台の露と消え去るが、その後間もなく彗星の如く現れたボナパルト・ナポレオンは、国内外で敏腕を振るい、権力を不動のものとし、皇帝の座につき、ヨーロッパの国々を次々と併合して、フランスの国威を高揚し得意の絶頂にあったが、ロシアの遠征に敗れエルバ島に流され、一度は再起を試みたものの成功を見ないまま、セント・ヘレナの孤島で五十一歳の波乱の人生に幕を下ろした。彼が建設を命じたパリーの凱旋門を遺骸となって通過したのは一八四〇年で、この日市民は、列をなして出迎えに馳せ参じたという。

ミセス・ガイドの話では、今でも歴史上の人物として国民に一番人気のあるのは、十九歳の命を捧げて国を救ったジャンヌ・ダルクではなくして、ナポレオン一世だという。このフランス人の感覚は、フランク王国への先祖帰り、或いは古代ローマ帝国への憧憬に根差すものではないか。二千年以上の長い年月、自己の属する共同体のため、時には命をかけて戦ってきたパトリオチズム(祖国愛)の発露ではなかろうか。


私はシーザーがアルルまで遠征してきたことを聞いたとき、直ぐに頭に浮かんだのは、インドのコヒマの慰霊碑文のもととなった、紀元前四八〇年にスパルタのレオニダス王以下三〇〇のギリシャ兵が、テルモピレーの隘路でペルシャの大軍を迎え撃ち、最後の一兵まで戦って全滅した将兵を称えた当時の詩人シモニダスの碑文「旅人よ、行きてラケダイモンにかくは告げよ、我ら国法に遵いて死して此処に在りと」であった。(筆者注、ラケダイモンはスパルタの別名)

私たちの旅は、その後ボルドーを経てロアールに点在するルネッサンス調の華麗なお城の幾つかを見た後、ノルマンディ地方に足を延ばし、一九四四年英米連合軍が上陸作戦を敢行した荒れたノルマンディの海辺に立ち、当時の戦況に思いを馳せた。不意を突かれたドイツ軍は、二か月でパリーを捨てざるを得なかった。紙数は最早無い。未完の擱筆御免下さい。


佐藤 博志  記


平成12年11月25日 戦友連382号より


【戦友連】 論文集