本年四月二十九日は、昭和天皇御生誕百周年の記念すべき日であります。二十世紀第一年の明治三十四年(一九〇一)にお生まれになった昭和天皇は、激動の二十世紀に際しわが国の運命を一身に担われ、国家、国民を導かれました。二十一世紀に入り、政治、経済、教育などますます混迷を深める平成の今日この機会にあたり、昭和天皇の大御心をお偲びし、昭和の国民の歩みを思い起こすことによって、日本人の魂を呼び覚まし、日本のあるべき進路を考えるよすがとしたいと思います。 |
出雲井 晶 : 作家 日本画家
昭和天皇が崩御されて以来私は、「日本神話」伝承の一方で昭和天皇について書かれたものを読みあさり、またこの度ご生誕百年にあたり、二度目の「昭和天皇」も上梓させていただきました。その間、私は何度も感極まって涙を流しました。その、あまりにも無私、どこまでも国家、国民のことを憂えられて、また人類すべての幸せと世界平和を
ご幼少時にお仕えした足立たかさん(後の鈴木貫太郎夫人)が、「この世にこのような純な美しい心根のお方がいるのか!」と、人の世の表裏というものと生まれながらに無縁のご人格に驚きいるのでした。と述べておられますが、私の目から涙が溢れるときも決まって、昭和天皇が仰せられたお言葉とおん
あの、今ではみなが知るところとなったマッカーサーを初めておたずねになられた日、戦前、戦中、陛下の仰せを謹んで
昭和天皇ご自身は、折りにふれてのお言葉やご行為にそのようなことは念頭におありではなかったでしょう。しかしご聖徳を辿らせていただくと、それはみな無私なるがゆえに閃く叡智と、すべてを
終戦のとき昭和天皇のご聖断がなかったならば、またお風呂もない列車や学校の教室にむしろをしいてお泊りになってのご巡幸による、国民へのお励ましがなかったならば、戦後の驚異的な復興はありえず、今の平和と豊かさを
ところが崩御あそばします半年前、全国戦没者追悼式でおよみあそばした御製「やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど」を拝誦いたしますとき、畏れ多く申しわけなさに身の縮む思いがいたします。
ご生誕百年の今年を期して、国民みなが
入江 隆則 : 明治大学教授
昭和天皇の御生誕百年を迎えて、まず思い起こすことは、昭和天皇が類い稀な名君であったことと、当時の日本人が心を一つにして天皇を崇敬し、また補佐していたことである。昭和時代の最大の国難であった、大東亜戦争の敗戦時を回顧するにつけて、とりわけその思いが深い。天皇の御存在は、比喩的な言い方をすれば、いわば大河の堤防のようなもので、洪水のない平時には、必ずしも、その御存在の意味が分からない向きもあるかもしれない。しかし三十年に一度、五十年に一度の大洪水が起こると、堤防とその周辺の広い空き地の意味と有難さが分かる。それによって家屋の浸水が防げて、人命も失われないからである。
天皇の御存在もこれに似た側面があって、五十年に一度、百年に一度の大国難の時になって、やっとその意味が分かるという側面がある。そういう国難が近代日本では二度あり、一つは幕末・明治の動乱の時代であり、もう一つのまだ記憶に新しい国難こそが半世紀前の敗戦であった。連合国側が出したポツダム宣言を日本が受け入れたことや、その後スムーズに行われた日本軍の戦闘行為の終結、戦後の復興への秩序立った歩みなど、どれ一つを取ってみても、昭和天皇の御決断とその巨大な影響力無しには不可能だったと思われる。
昭和天皇は戦後処理に関して、七世紀中葉に白村江で唐と新羅の連合軍に日本が敗れた時の、天智天皇の戦後処理に学ぶという意識をお持ちだった、という話を聞いたことがある。敗戦の混迷の中で、こうした一千三百年前の歴史を思い出されたということだけでも非凡なことであったが、それから七年の占領期間を経て、昭和二十七年の四月二十八日に、サンフランシスコでの平和条約が発効して、日本国が主権を回復した時には、昭和天皇は誰にも増して、それを喜ばれている。当時の御製(*)を拝読すると、主権回復ということの意味の深さをよく自覚されていたことが読み取れる。昭和天皇御生誕百年の節目に当たり、そういう過去の激動の歴史を思い出して、未来に誤りなきを期したいものである。
(*) 昭和天皇御製
平和条約発効の日を迎えて 五首
(昭和二十七年)
風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちまし
八重桜咲く春となりけり
国の春と今こそはなれ
霜こほる冬にたへこし民のちからに
花みづきむらさきはしどい咲きにほふ
わが庭見ても世を思ふなり
冬すぎて菊桜さく春になれど
母のすがたをえ見ぬかなしさ(※)
わが庭にあそぶ鳩見ておもふかな
世の荒波はいかにあらむと
(※)前年五月、貞明皇后崩御
竹本 忠雄 : 筑波大学名誉教授
日本の運命を、閉じられたものとしてでなく開かれたものとして残された国民的恩人―――。私にとって昭和天皇とはそのような歴史的大帝である。
奇しくも、天皇と同じ西暦一九〇一年生まれで、天皇より六ヶ月(十一月)後に生誕百年を迎えるフランスのアンドレ・マルローとの有名な会見(一九五八)に、如実にそのことは表れているように思われる。「武士道の民と騎士道の民の対話」を説くド・ゴール大統領の特使に陛下はこう応じられたのだ。「しかし、あなたは、来日以来、一度でも武士道を思わせるものを見ましたか」と。
これにはさすがのマルローも驚いたらしい。「ほかならぬ天皇ご自身がそのように仰せられたのだから・・・」とは、後の彼の述懐である。
名著『反回想録』で想起されたことから、この対話はフランスでも評判となった。「本当は、天皇は戦後日本にも武士道はあると思っていらっしゃったに相違ない」と、あるフランス大使のごときは、宮城を見ながら散策の折に私に打ち明けたものだった。
シオンの宮に詣でること叶わずして長篇悲歌を残したユダ王国滅亡時のエレミヤさながら、靖國の宮居に今年もまた詣でること叶わずと嘆きの御製を重ねられた先帝陛下のご宸憂を思うとき、命題は如何にも悲観的である。「バビロンの幽囚」は、わが日本だ。武士道など、どこにあろうか。
そもそも武士道は、花道の名優のごとく消えゆく運命にあると予言したのは新渡戸稲造であった。
だが、私は、玉音放送から四十三日目に、ひそかに宮城を出てマッカーサーと会見せられた天皇の偉大を思うのだ。敗北の高貴、ここに極まる、と。よろしく朕ひとりを罰して臣下と民草を許せよ―――この一言に輝き出たものこそ、戦後最高の武士道を実践せられた方は天皇ご自身にほかならないとの明証ではあるまいか。
同時にそれは、皇道あっての武士道を思わせずにはいない。共に、「
この記事は日本会議の月刊誌「日本の息吹」
(平成13年4月号)より転載しました。
【戦友連】 論文集 |