民意が作った小泉新政権
公約の実行にその真価は問われる 靖國神社公式参拝の信念を貫け



瓢箪から駒、総裁選びの意外な結果

去る4月26日に発足した小泉新政権の国民的支持率は、各メディアの調査では、その全てが過去最高の80%の大台に乗り(朝日新聞のみ78%)自民党の支持率も36%と約10%の上昇を示した。もともとこの総裁選挙は、7月に行われる参議院選挙に臨むに当たって、森総理では勝負にならないとの自民党内部の空気から、9月を繰り上げて行われたもので、野党提出の森総理不信任案を否決したばかりの与党三党にとっては、まさに矛盾に満ちた選択であった。現に一部のマスコミは、信任された以上森総理は任期一杯辞任すべきではない、との論評が揶揄と皮肉を交えながらも語られていた。しかし、自民党を牛耳る最大派閥の執行部は、永田町一流の数の論理から、地方の投票権を一票から三票に延ばしても尚勝算ありと読んで、一見極めて民主的なポーズをとって予備選挙と本選挙との建前選挙の手続きを踏んだ。

だが、キング・メーカー的存在の自民党の実力者の思惑も、今回は、民意を反映した地方自民党員の予備選挙により打ち砕かれ、即ち派閥政治からの脱却を訴え「構造改革なくして景気の回復なし」と弧軍奮闘した小泉候補の地滑り的圧勝を許し、その圧力は国会議員による本選挙をも制圧し、予想された決戦投票を待つことなく、小泉総裁が誕生した。この結果には政治の専門家ほど驚いた様子で、小泉新総理も、ひょっとしたらとの思いはあったにしろ、これ程までに国民の支持を得ようとは考えもしなかったことであろうし、ましてや本命視されていた橋本派にとっては、晴天の霹靂的出来事であったに違いない。

このことは、如何に国民が現在の変質堕落した自民党の改革に期待し、政治の閉塞感から解放されることを望んでいたかの証左でなくして何であろう。確かに私なども、事ある毎に郵政事業の民営化を唱え、かつて田中新外相をして「変人」と言わしめた新総理に、永年勤続褒章辞退などから一徹者と或る程度の評価を与えてはいたが、今回の総裁選での言動、特に憲法9条の改正問題への率直的発言や、靖國神社公式参拝宣言など、まさにわが意を得たりと待望久しい宰相出現と心の躍動を覚えずにはいられなかった。そして公約通り、派閥にとらわれない一応適材適所の組閣人事を断行したことに、満腔の敬意を表するものである。瓢箪から駒とはまさにこの事であろう。




政治は一筋縄では行かない
時には或る程度の妥協も・・・



保守党はともかく、立党理念を異にする公明党との連立は、小泉総理の本音ではなかろうが、参議院選挙の結果をみるまでは、やむを得ない妥協とみなければならない。又派閥解消も、一挙に成し遂げられないことは、副大臣の起用が派閥間のバランス人事になっていることから見ても容易に頷ける。旧主流派は参議院選挙までのお手並み拝見と鳴りを潜めていることも事実であろうし、勝馬に乗ったつもりが、意に反して冷や飯を食わされたことに、隙あらばと虎視眈々としている派閥の存在も否定し得ない。初心忘れず構造改革には荒療治は欠かせないが、時に応じ権謀術策を用いることも政治の要諦ではなかろうか。

又政治は結果が問われることが定説となっており、いわゆる失われた十年の過去の政治は、結果を恐れる余り政策が後手々々となり、難しい問題は先送りにした侭益々深みに嵌まって行ったのではなかろうか。この際小泉新総理に求められるものは、何者をも恐れず所信に向かっての決断とその断行にあるのみである。




新総理の所信表明演説



新総理は5月7日の所信表明演説において、その冒頭「痛みを恐れず、既得権益の壁にひるまず、過去の経験にとらわれず、『新世紀維新』とも言うべき改革を断行したい」と述べ、最後に「私は『聖域なき構造改革』に取組み、自らを律し、一身を投げ出し、日本国首相の職責を果たすべく、全力を尽くす覚悟である」と議場を圧する気迫を込めてその所信を表明した。これに対する野党の反応は、立場上当然の事ながら「改革々々と37回も唱えているが内容は何も見えてこないと相変わらずの冷ややかその物であった。

一方政治評論家の評価は賛否まちまちで、或る人は、ここ二十年来聞かれなかった素晴らしいものであったと賞賛の声を惜しまないとともに、議場の反応にも触れ、要所々々で声援を送っていたのは与野党を問わず、議場の前方に席を占める若手の議員達であり、後方の古手議員席では、自民党議員すら静寂を装っていたと言う。この指摘は小泉総理の行く手を阻むハードルの高さを思わせ、又時の流れが世代交代・政界再編を呼び込んでいることを暗示するものとして、極めて印象的であった。

又著名な評論家の一人は「七重八重花は咲けども山吹の、みの一つだになきぞ悲しき」の古歌を引用し、その内容の空虚さを憂えていた。たしかに、「構造改革なくして景気回復なし」とのスローガンから直ちに、構造改革とは具体的に何を意味するのかを推量することのできる一般の国民は極めて稀であろう。私自身もピンとこない点が多々あるが、自分を納得させる意味で敢えて私なりの解釈を試み、読者諸兄の御批判を仰ぎたい。




構造改革とは



構造改革は、大別して三つのポイントがあげられる。1、不良債権の二年(古いもの)・三年(新しいもの)での最終処理。2、規制改革による経済の自主的競争態勢の確立。3、特殊法人のゼロベースからの見直しを含む行財政のスリム化・効率化による国家財政の健全化。

ここで最も我々に分かり難いのは、優先順位の一番目にあげられ、又米国からも早急な解決を求められている不良債権の処理問題である。不良債権とは一体何だ。一口で言えば、金融機関が貸し出したお金が焦げ付いて回収の見込みのない金額のことだろう。借金は必ず返さなければならないと言うことは、一昔前なら子供でも弁えていた道理である。ところがバブル経済の波に浮かれた金融機関は、その大小を問わず我先にと投機の枠を広げ、やがてバブルの崩壊による地価の暴落は担保価値の減失をもたらし、中でも大手債務者の一部には、貸し手側の背任行為を示唆して開き直る者まで現れ、貸借に関する権利と義務の関係はまるで主客転倒の趣さえ呈するに至った。

かくて有力都市銀行の破綻を見るや、かつて住専問題処理に当たり、六八五〇億円の公的資金注入に白熱の国会論議に明け暮れたにも拘らず、当時の行政当局は金融機関救済の為に六〇兆円に及ぶ桁違いの公的資金注入を決定した。しかしこの政策も、金融筋の面目に拘ったのか或いは悪事露見を恐れてか、いわゆる護送船団方式の一律の対処の仕方で、所期の目的を達せずに現在に及んでいる。




ここに見え隠れしているのが政・官・財の癒着の構造である。そこに通底しているものは、戦後の悪弊に染まったエゴ丸出しの既得権益確保にしがみつく族議員・官僚・経営者の倫理観の欠如である。従ってこの問題の解決は、債権買取機関の設置とか銀行保有株の制限とか、制度面の改革より先ず関係者の心の改革が先決である。なにしろ不良債権の額が公式には三〇兆円といわれているが、識者の間でも実際は六〇兆円或いは百兆円を超すのではないかとの意見の相違もあり、その正確な数字の把握も必須の要件である。小泉総理の不退転のリーダーシップの下、柳沢金融相・竹中経済財政相・石原行政改革相の若手三大臣の緊密な協調により、金融機関の企業倫理に則った自己責任原則の情報公開を指導し、不正があれば司直の手を煩わすことに躊躇することなく、且つ爪に火を点して汗水を流して債務の弁済に勤しむ零細企業に理解を示す社会正義の実現に努力し、そのことを一般庶民に分かり易く説明すれば、改革を選んだ国民はたとえばゼロ金利が多少長引こうともついて行く覚悟はできている筈である。しかし本音を漏らせば、或る評論家が指摘したように二、三年といわず、その半分くらいの短期間で終結することを切望して止まない。




2、の徹底的規制改革による自主的経済体制の確立と、3、の行財政のスリム化・効率化による財政の健全化は、これから育成すべき産業分野、その必要とする新技術の研究開発への支援、或いは自然淘汰もやむを得ない産業界への対応乃至は民営化促進による効率化対策など、これ以上国の借金を増やさない大原則のもと、限られた予算内での大幅な国家予算の使途の変更に絡む共通事項を包含しているので、紙数の都合もあり一緒に簡単にコメントしたい。ここでは、既得権益擁護グループの抵抗は1、の場合に数倍する激しさが予想されるし、同時に意見を異にする学者をも納得せしめるに足る理論武装も固めなければならない。最大の問題は多数の発生が予想される失業者の対策、いわゆるセーフネットの構築をどうするかということであろう。

ここで論理は飛躍するが、私は独断と偏見とを意に介せず、今の日本の経済を市場のメカニズムに任せ、弱肉強食・適者生存の自然界の法則の荒波に放り出せと言いたい。戦前の東北の寒村の窮状或いは「野麦峠」の悲哀な物語を思い出すが良い。物質的には恵まれなくても、それを補って余りある心の豊かさ、心温まる家族愛があった。そして敗戦直後の「生きる」ための創意工夫とあのヴァイタリティに、限りない懐かしさを覚えるではないか。暖衣飽食に慣れ、一国平和主義の幻想に耽溺していたわが国は、冷戦構造の終結と続いてのバブル経済の崩壊で自信と活力を喪失し、荒廃した精神風土が政治・経済・社会の全般に瀰漫し、不祥事件が相次いで続発し、国民の政治不信は飽和点に達していた。そこに「改革の人」小泉総理の登場である。その政策の中身は分からなくても、国民は彼の心意気とその行動力に国運を託したのである。




靖國神社参拝を信じて疑わない



残念ながら所信表明演説には、総裁選挙で我らの心の琴線に触れた靖國神社参拝や憲法9条改正問題は盛り込まれなかった。連立政権維持に公明党への配慮がしからしめた所以であろう。この小泉靖國発言は、マスコミにも時ならぬ大きな衝撃を与えた。特に朝日新聞は、例によって外圧利用の世論誘導を意識して、組閣直後の新大臣に一人一人「靖國参拝」の踏み絵を踏ませた。質問時間になるや否や開口一番朝日新聞と名乗り、「小泉新総理は8月15日に靖國神社に公式参拝するといっているが、そのことについてどう思うか。また貴方は参拝するか、しないか。そしてその理由は?」と馬鹿の一つ覚え宜しく大声を繰り返していた。まるで中国の人民日報の東京派遣記者と見紛うばかりのその様子に、怒りを通り越して憐憫(れんぴん)の情すら覚えた。

これに答えた各大臣の返答も、石原行政改革大臣の「多くの方々の犠牲の上に、この国の平和と繁栄とが築かれたことを思えば、感謝の誠を捧げるのは当然、8月15日には参拝する」との返答を除いては、合格点はつけられなかった。特に、日頃我々にあれだけの情熱を見せていた平沼経済産業大臣の「国に殉じた方々にお参りすることは必要と思うが、近隣諸国の感情にも考慮せざるを得ないので、私的参拝はしているが、公式参拝はしたことがない」との言辞にはがっかりさせられた。




その後、注意深くテレビの報道をみているが、5月6日の「サンデープロジェクト」で田原総一郎と公明党の神崎党首との対談で、神崎が「靖國参拝は違憲の疑いもあり、A級戦犯も合祀されており、中国も反対しているので総理には慎重な対処方を要請している」との靖國否定論に対して、田原は「知り合いの中国人に、日本には死者はすべてが許される習俗のあることを話したら相手方は納得していたので、靖國問題も中国側によく説明すれば分かって貰える」と反論しているのを見て、世論に敏感な田原の変身振りに時の流れを感ずるとともに、公明党の宗教性を割り引いてみても、神崎が肝胆相照らしていると言われる野中自民党元幹事長の「A級戦犯分祀論」を口にするのを聞いて、その認識不足に溜息をつかざるを得なかった。彼等と連立を組まざるを得ない小泉新総理の苦衷を察しつつ、百万人といえども我行かんの彼の気概に感じ、靖國参拝の実行を信じて疑わなかった。

果せるかな、5月9日の野党第一党の鳩山民主党代表の質問に答えて明確に、「戦没者に感謝の誠を捧げる気持ちは些かも、変わっていない。個人として、8月15日には靖國神社に参拝する」と宣言した。この夜のテレビ解説で、今は政治評論家の矢野詢也氏は、前の公式参拝が今日は個人参拝と変わったが、参拝することに変わりはない。彼の最近の言動を見ていると、自民党の保守本流としての政界再編を睨んでいるように思われるとの感懐を吐露していた。彼の観測が当たり、真性保守のリーダーとして大成することを心から願うものである。それには先ず、7月の参議院選挙をクリヤーしなければならない。当面の我々の努めは、小泉政権が維持できるよう参議院選挙に最大の協力を惜しまないことである。




平13.5.10 佐藤 博志  記



平成13年5月25日 戦友連388号より


【戦友連】 論文集