小泉総理の靖國参拝表明と
閣僚の靖國参拝を避ける
認識に寄せる一文



英霊にこたえる会中央本部 
運営委員長 倉林 和男   
(元空将補)  




今年は、先帝陛下の御生誕百年、そして、あの大東亜戦争開戦から六十年目を数える。

また、我々が求めてやまない総理の靖國神社公式参拝に思いを致す時、占領下の神道指令のもとにあって、時の吉田茂総理が、靖國神社にサンフランシスコ講和条約調印の報告参拝をした昭和二十六年十月十八日から五十年、という意義ある節目の年にも当る。

因みに平成十三年の干支は、「辛未」(かのとみ)であり、「全ての物が新しく生まれ、成り変り」、「物事が起こり定まり、さらに、災を祓い護る」とのことと聞き及んでいるが、過日宮内庁から発表された皇太子妃殿下御懐妊の朗報、さらには、本年十一月か十二月始めの御生誕との慶事は、正に干支の意味するところを裏付けていると言えるのではなかろうか。




ところで、これらの事柄と重なって登場したのが、靖國神社公式参拝を高らかに表明しての小泉純一郎総理である。誰もが予測しなかったこの快挙は、去る四月一五日の自由民主党総裁選挙の最中に、小泉候補が、総裁選の有力候補と目されていた橋本龍太郎候補がかつて会長であった東京・九段の日本遺族会を訪れ、「私が総裁に選ばれ、総理になった場合は、必ず靖國神社に公式参拝する」との発言からはじまったのである。

ところが、このことに刺激されてか、共に総裁選に臨んでいた亀井静香候補が早速、翌々日の十七日に靖國神社参拝という直接行動に出、次いで、先を越されたと見て取ったのか閣僚である橋本候補も、二十一日の早朝私有車で参拝するという誘発的現象を生み、その後の選挙討論の大きな論点ともなって、結果的には小泉新総裁、新総理の誕生を見るに至ったのである。

この、巷間変人と囁かれ、自らは変革の人として異彩を放つ小泉総理は、組閣に当っても慣習を破って、これまでの派閥均衡順送り人事にとらわれず、これはと信じる人物を一本釣りして、適材適所に閣僚として配置し、軽々に閣僚の交代はしないと言明して、四月二十六日に小泉内閣を発足させた。




ところが、定例の記者会見に臨んだその新閣僚は、朝日新聞が意図的に、福田康夫官房長官を除く十六閣僚に対して質問した「小泉総理の靖國参拝についての所見は?閣僚としての靖國参拝の是非とその理由は?」に対して、大部分の閣僚が、小泉総理に信任された人物とは別人のような、自信のない、おどおどした、落第点の答を繰り返した。翌二十七日の朝日の紙面は、してやったりと「公式参拝する閣僚16人中ゼロ、見送り促す意見も」の見出しで、個人別のコメントの一表を付して報じている。

突然の、予期していなかった質問であったとしても、総理がこれまでにしばしば言及し、今日的話題ともなっている事柄でもあり、当然一人の政治家として、靖國問題についての然るべき一つの見識を堅持しているべきものであったのに、それが無かった。




さて、来る八月十五日の「戦没者を追悼して平和を祈念する日」に靖國神社に臨む小泉総理の信念は固く、昨年に引き続いて注目の人石原慎太郎知事と共に、五十年前に吉田総理が公式参拝したと同様に、真に英霊の御心にこたえる、国家、国民を代表してその誠を捧げる参拝が、社頭に見られるであろう。

しかしながら、前述のように閣僚を含めて国会議員の多くの靖國についての認識は乏しく、端的にいって不勉強である。




聞くところによれば、田中真紀子外相は、小泉総理の参拝は差し控えるべきだと諌言しているとのことであるが、今回の訪米でアーリントン国立墓地に表敬参拝しているが、同胞の御霊の鎮まる靖國神社に、自国の総理が参拝してはいけないという理論は通用しない。

田中外相は、そのようなことよりも、六十年前の大東亜戦争開戦のその日、駐米大使館で何があったかに思いを巡らすべきであろう。外務省は、開戦から五十余年も過ぎた平成六年十一月二十日に至って、米国への開戦通告の遅れは大使館の職務怠慢であったことを認めたが、この怠慢が、その後”リメンバー・パールハーバー”(真珠湾を忘れるな)をルーズベルト大統領をして語らせ、今日にあっても、この騙し討ちの史観は完全に払拭されていない。

田中外相は、この六十年の節目の年こそ、靖國神社に参拝し、その非を英霊に詫びるべきなのであり、小泉内閣の外相としてのとるべき姿勢なのである。また他の閣僚も、己れを信頼して閣僚に任命してくれた小泉総理の改革と断行の信念に応えるためにも、総理と行動を共にするのが、閣僚としてのとるべき道なのである。




英霊にこたえる会では、これらの閣僚に少しでも靖國問題を理解する上での手引きとして、今回、この七月一日に発刊される「月刊・国会ニュース」に小文を掲載したが、読者の皆様方にも、ご参考までに次に転載いたします。八月十五日に向けて、関係ある閣僚に対して靖國神社参拝を要請する国民運動を、共に展開していきましょう。






いわゆるA級戦犯はなぜ合祀されたのか!


いわゆる戦犯の靖國合祀の法的根拠



戦後、靖國神社に一般戦没者を合祀する手続きは昭和三十一年四月、厚生省から都道府県に通牒した「靖國神社合祀事務に関する協力について」により、国と地方自治体が合祀者を選考して、その名簿(祭神名票)を神社に送付するという手順で行われ、その選考の法的根拠となったのが、昭和二十七年に制定した「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と、翌二十八年に立法した「恩給法」である。

次いでこの二法は、二十八・二十九年にそれぞれ改正されて戦犯遺族、受刑者本人にも適用され、恩給法の九条(受給欠格条項)に関係なく恩給が支給され、また、受給対象年限に拘禁期間が通算されるという措置がとられて、B・C級の方が昭和三十四年三月、A級十四名が五十三年十月に、それぞれ法の裏付けの下に合祀されたのである。


戦犯に寄せる国民的感情



本来、わが国が主権を回復した昭和二十七年四月二十七日の時点で、拘禁中の戦犯は釈放されるべきであったのを、サンフランシスコ講和条約十一条により、当時国内外に拘禁されていた千二百二十四名は、引き続き拘留を余儀なくされていた。この現状を忍びず、早期釈放を求める国民の声は、四千万人の署名となって表面化した。

一方、政府にあっても、二十七年五月に法務総裁から「国内法上の犯罪者とはみなさない」との通牒が出され、巣鴨拘置所では、公職選挙法による不在者投票が行われ、さらに拘置所の管理がわが国に移管された後は、拘置所からの外部就職等が現実のものとなり、形式的な拘留が続けられていたのである。

次いで、国会においても前述の援護法改正が、衆議院厚生委員会で右派社会党の堤ツルヨ氏から提起され、全会一致で採択をみ、同年十二月には衆参両院で「赦免に関する決議」を圧倒的多数(労農党反対)で可決し、A級は、昭和三十一年三月三十一日終身禁固であった佐藤元軍務局長が釈放、B・C級は、三十三年五月三十日までに全員釈放となり、この時点で東京裁判をはじめとする一連の軍事裁判は、国際的にも終止符が打たれたのである。


A級戦犯が大臣に



今日、小泉総理の靖國神社参拝をめぐって論議が交わされているが、十四名の合祀者(刑死者七名、裁判中の死亡者二名、判決後の獄死者五名)と共にA級戦犯とされ、終身禁固となった賀屋元蔵相がその後法相となり、七年の禁固とされた重光元外相が外相・副総理となり、さらに、第二次東京裁判被告要員として、裁判が終結後も拘留され、東條元総理ら七名が刑死した翌日に、十九名の一人として釈放された岸元商工相が総理になったことを、何んと見たら良いのであろうか。

今日、多くの国民の間に、さきの大戦が終わったのは昭和二十年八月十五日との認識があるが、八月十五日(正しくは十四日)は宣言を受諾した日であり、次いで九月二日は、降伏調印してわが国の主権が喪失して占領下に入った日で、この日から二十七年四月二十八日の独立回復までの期間は、国際法上は銃弾こそ飛び交っていなかったが戦時下であり、刑死等された方は、戦死、戦病死に準ずる犠牲者であったのである。




平成13年6月25日 戦友連389号より


【戦友連】 論文集