沖縄を忘れるな
― 6月23日は沖縄戦最後の日 ―






この記事は、昭和32年以来毎年続けられている「殉国沖縄学徒顕彰会」の今年の顕彰祭にあたり、送られた趣意書であります。

凄絶悲惨な戦場を身をもって体験した我々戦友には、いたいけな少年少女が純心一途に、歯を()いしばって戦場を駆けめぐり、死んで行った姿が神々しく思い浮かびます。ご一読、沈思黙考いただければ幸です。






殉國沖繩學徒顯彰五拾六年祭
趣  意  書




過ぐる昭和二十年春夏の間、戦史未曾有の米軍に対した我が軍・官・民一体の凄絶なる沖縄の決戦は、まさしく祖国の楯となり防波堤となったのであります。

思えば、当時陸・海・空の戦況は日に日に我に不利となり、先にサイパンを侵し、比島に()り、勢に乗じて一路北上を続ける米大軍は、その年の三月末に至り、果然わが日本列島の最南端たる国土沖縄に強行上陸を企て来ったのであります。即ち都府県四十三県のうち、ひとり出血上陸の的となった沖縄県こそ、言いかえれば他の北海道・本州・四国・九州など四つの島に代わって鉄火の雨注を受け、一億国民の身代わりになったのでありまして、その惨たる結果は、遂に地上の形状その影を留めず、国難に殉じた同胞は実に二十万(軍六万、県民十四万)の多きを数えるに至りました。




中でも胸を打って悲しきは、童顔溢れる中学校の健児達が、仇の迫るを見るや、「鉄血勤皇隊」(十四歳から十七歳)並びに「通信隊」(十二、三歳)を編制して軍人(いくさびと)(陸軍二等兵)となり、直ちに天空暗き悽愴なる戦列に馳せ参ずるや、雄叫(おたけ)びをあげて敵戦車に突入し、敵陣に斬込み、或いは通信・伝令等等の任務に身を挺し、遂にその殆どが鬼神も哭く壮烈な最期を遂げ、また「ひめゆり学徒隊」を初めとする女学校の乙女達が、男子に劣らぬ大任を担いて従軍看護婦(陸軍軍属)となり、健気(けなげ)にも矢弾降り注ぐ最前線で精神力のあらん限りを尽して負傷兵の看護に当り、哀れその大半が天翔ける身となったことや、更には、国策に沿って海原遠く南九州へ疎開した学童八百が、星なき暗夜の悪石(あくせき)島(鹿児島県)沖で敵潜の魚雷攻撃を受け、痛ましくも乗船「対馬丸」と共に水漬く屍となったことや、そして、戦火に斃れて草むす屍となった子供たちや老幼の面影であります。

斯くして忘るるぞなき我が学徒達は、恩師を擁して今は征きて還らぬ身となりましたが、その尊き学校名は、「鉄血勤皇隊」並びに「通信隊」を編制した沖縄師範学校男子部、沖縄県立第一中学校、同第二中学校、同第三中学校、同工業学校、同農林学校、同水産学校、市立商業学校、私立開南中学校の九校と、従軍看護婦となった沖縄師範学校女子部(ひめゆり学徒隊)、沖縄県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊)、同第二高等女学校(白梅(しらうめ)学徒隊)、同第三高等女学校(名護蘭(なごらん)学徒隊)、同首里(しゅり)高等女学校(瑞泉(ずいせん)学徒隊)、私立昭和高等女学校(梯梧(でいご)学徒隊)、私立積徳高等女学校(積徳(せきとく)学徒隊)の七校であります。




嗚呼!  歳月風霜も消し難きこの少年少女たちの殉国に、誰か慟哭せざるものがありましょうか。果たして世界の戦史にこの様な例があったでありましょうか。しかるにこの学徒達の国に殉じた在りし日の尊き姿は、学びの庭で教えられることもなく、また太平の世の人達に語られることも少なく、心なき戦後も五十六年が過ぎて仕舞いました。

就きましては、斯かる世相の中に於いても、たとえ一本の蝋燭(ろうそく)たろうとも、蕾のままに花と散ったこの学徒達を顕彰し、また顕彰せんと、昭和三十二年から続けてきたこのお祭りを、本年も沖縄戦終結の日である六月二十三日を期し、うら若き神々の鎮まります靖國神社御本殿に於いて『殉国沖縄学徒顕彰五十六年祭』を齋行いたします。何とぞ万障繰合わせの上、御関係の方々も御誘い下さいまして御参列を賜り度く、此許に謹んでご案内を奉ります。

平成十三年水無月




        記

一、月 日  六月二十三日(土)十五時より(午後三時)

一、場 所  靖國神社本殿

一、玉串料  参千円




祭主・殉國沖繩學徒顯彰會

代表  金 城   和 彦
― 前國士舘大学教授 ―




平成13年6月25日 戦友連389号より


【戦友連】 論文集