小泉首相の靖國参拝をいかに考えるか〔1〕




この記事は8月15日に靖國境内で実施された「第十五会戦没者追悼中央国民集会」後に行われた緊急対談の記録です。日本会議の月刊誌「日本の息吹」13年9月号より転載しました。


明星大学教授
 小 堀 桂一郎
(東京大学名誉教授)

埼玉大学教授
 長谷川 三千子






十五日に参っていただきたかったが・・・



長谷川 今日(八月十五日)の国民集会は、例年にも増しての盛り上がりでしたが、やはり小泉首相がこの日に来てくださるということを期待していただけに、十三日になったことへの失望落胆の気持ちも感じられた集会でした。

小堀 産経新聞の八月三日の二面にわたる意見広告に、5千に近い人の醵金が集まったということは、それに何倍する人たちが八月十五日における総理参拝を念願として意思表示していたわけですから、かくも多数の人々の信頼を無残に裏切ったという印象は免れることができません。

長谷川 神社の御祭りとしては春秋の例大祭もあるので、日にちはさほどこだわらなくともよいという意見もありますが、やはり靖國神社というものの持っている我が国にとっての特別の意味を考えると、八月十五日に参っていただきたかったという思いを強くいたします。昭和天皇が終戦の詔書を発せられた日であり、我が国の国運に結びついた日であるのですから。







小堀 すぐ近くの日本武道館では、天皇陛下の御臨席の下、全国戦没者追悼式が行われていましたが、本来ならば、天皇陛下には靖國神社においでいただきたいのです。それには、先ず総理が公式参拝を復活して道を開かねばなりません。それは小泉総理の約束でもありました。

また、礼拝の作法は一礼のみでした。神道の作法にもいろいろあって、二礼二拍手一拝の作法にはそれほど拘泥しなくてもいいとは思いますが、多くの国民がこのマナーで参拝しているのですから、国民の代表としての総理も同じようになさるのが自然なことではなかったかと思います。

そもそも私共の国民集会は、昭和六十一年に、当時の中曽根総理が中国の圧力に屈して前年まで三回も続けていた八月十五日当日の公式参拝を打ち切ってしまったことに抗議して始まりました。中曽根さんの屈伏がどんなに有力なカードを北京政府の手に与えたことになったか。そのカードを彼らはそれ以来十五年間有効に切り続け、日本の総理大臣の靖國参拝を阻止することに成功してきた。

小泉首相が十五日に参拝していれば、そこはもはあ、中国はこのカードを切れなくなったと思います。というのは、小泉さんの前の森内閣が最後に残していってくれた功績として、日本は教科書問題での再修正要求の拒否と李登輝さんの訪日の実現という二つの勝ち点を上げていました。中国側としては八月十五日の参拝問題だけは自分たちのカードを押さえておきたい。そこで躍起になってはたらきかけを行った。小泉さんの靖國参拝が阻止できないならば、せめて十五日は避けろ、そして首相談話の中で中国侵略への反省の言葉を入れろという要求があったと言われています。それが実現したことは、日本の外交の敗北です。その結果、中国が靖國カードをまだ有効なものとして今後も切り続ける余地を残してしまった。

十五日に参拝が行なわれていれば、おそらく八月三日の大意見広告と同様世論が盛り上がり、小泉首相支持の国民的意志がはっきり目に映る形で表れ、あれだけ日本国民が支持しているのだったら、小泉総理は手ごわいぞと彼らに思わせることができた。そうなると、中国はもう何も言ってこられなくなります。石原慎太郎東京都知事は昨年に引き続き、本日、参拝されましたが、この人には絶対敵わないと思っているから彼らは何も言わない。それと同様の強さが小泉さんにも与えられたはずです。







長谷川 国内にあってはYKKの山崎拓、加藤紘一が足を引っ張りましたが、小泉さんが公約通りに断固として十五日に参拝していたら、小泉さんはYKKから抜けて首相の器であることを世に証明していたと思います。しかしYとKの意に沿った形になったことで、そのチャンスを自ら逃してしまいました。

小堀 中韓両国の使い奴みたいに総理を責め立てた山崎幹事長、福田官房長官らは、まことに困った人たちでした。

長谷川 それに田中外務大臣も。

小堀 一方ではそれらの外圧内圧、片方では参拝支持者たちの期待という両方に対して顔を立てようと思って熟慮の末、いわゆる前倒しを決断されたんだと思いますが、残念ながらその結果は裏目に出て、何よりも大切な首相支持者の陣営から激しい顰蹙を買う結果になってしまった。

とはいえ、我々としてはそういう包囲網の中、問題はあったけれども、昭和六十年に中曽根さんがいらして以来十六年ぶりに総理の靖國神社公式参拝が実現した、ということ自体は評価してよろしいと思います。




首相談話が問題



長谷川 そういたしますと、この先の課題は、両面をもつことになるという感じがいたします。なぜ本来十五日であって、本来二礼二拍手一拝であるべきものが、ああいう不自然な期日、不自然な形になってしまったかというと、それは小泉さんご自身が何か曲がった気持ちをお持ちだったわけではなく、外圧内圧に屈した結果だった。とすれば、我々としてはいたずらに小泉さんを責めるのではなくて、むしろこれからどうやって正しく支えていったらいいのか。そのことが我々自身の課題となってくると思います。他方で、今日の集会で小堀先生がおっしゃっていらしたように、問題は期日がずれた、礼拝の形式がどうであったということだけではない。それと一緒に出されたあの首相談話なるものが一番問題を含んでいる。一回出されてしまった首相談話というものを、これからどう元の正しい軌道に戻していったらいいか、というさらに難しい課題が出てくることになります。

小堀 まことに今回の妥協の中での最大の欠陥は、首相談話でした。おそらく属僚が書いたものを棒読みしたという程度のものだとは思いますが。昭和二十年のいわゆる終戦内閣を率いていた宰相鈴木貫太郎は、耳の遠い七十九歳の老人で政治はおよそ苦手だと自分から言っておりまして、事実国会や閣議での発言は属僚の作文を棒読みしているだけ、と思われていました。ところが、氏は実はそれをちゃんと下読みしていて、不穏当と見た部分は朱線で抹消してそこをとばす、という配慮をしていたことがわかっています。小泉さんもそれに倣ってほしかった。属僚らの作文である談話を読んでみて、「これはまずい」とお気づきになられたなかったのかと残念に思います。あれは平成七年の村山談話の焼き直しであり、しかもさらに悪くなっている。一体これが一国の首相の言うことであるか。

長谷川 私も、先ずあれを見て「これはいかん」という気がしました。もし小泉さんがごく普通のまっとうな日本人がもつべき常識をもっていたならば、さすがに官房長官に待ったをかけたはず。あのまま出してしまったということはやはり、英霊を弔う心情は豊富にあっても、それを支える論理が決定的に欠けていた、という気がします。

小堀 あの談話にどういう重要な問題が潜んでいるかということが、為政者たちにはまったくわからなくなってしまっている。総理が念願の公式参拝を果した。その心境を吐露された談話であるにもかかわらず、一番はじめに「侵略」への反省だの不戦の誓いだのということが出てくる。自虐史観そのもの。何のために靖國神社にいらしたんですか、英霊の鎮魂のためではなかったのですか、と問い返したくなります。あるいはまた、内外の人々がわだかまりのないような新しい追悼の施設が検討に値するというようなことを言う。これは国立戦没者墓苑新設案を暗示しているのでしょうが、その話なら小泉さんもすでに否定していたはずです。この談話に基づいて国立墓苑構想が又しても現実に検討の俎上に上るというようなことになりますと、これはまさに聞き捨てならない問題になってきます。

長谷川 首相談話にふさわしい言葉というものがある。私は小泉総理が靖國神社参拝の意志を表明するたびに多少気になっていたことがありました。「心ならずも戦争に赴かねばならなかった犠牲者」とか、「二度と戦争を起こさないために」というような言葉ですが、英霊を祀るということは、本来、祀る側の姿勢としては、自分も「後に続きます」という決意がなければ成り立たないものではないか。小泉さんには、その「武の論理」というものが欠落していたのです。折りしも、本日の集会で中川昭一代議士が「戦いの決意」を述べておれましたが、我が意を得たりという気がしました。




「戦犯」という言葉を使うな



小堀 とはいいながら、とにもかくにも八月における小泉総理の靖國神社公式参拝は実現しました。次は、ぜひとも春秋の例大祭での総理の参拝を復活しなければなりません。

長谷川 そのためにも、これまでごくまっとうな政治の行事、儀式を阻害してきたいろいろな理屈があります。それをひとつひとつきちんと論破しておくということが、どうしても必要になるという気がいたします。今回の靖國神社の参拝については政教分離の原則ということと、いわゆる「A級戦犯」問題、つまり大東亜戦争をどう評価し認識するかという二つの問題がセットになっていました。

小堀 そもそも私は「A級戦犯」という言葉は使ってほしくない。やむを得ず使わざるをえないときは、私は東京裁判での「A級戦犯」というような表現を使っていますが、その方々の合祀の問題はすでに昭和二十八年の段階で完全に片付いている。つまり、日本の国内法ではこの方々を決して犯罪人とはみなしていない。恩給法、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用によって、この方々の名誉は回復している。これも何度も繰返し筆にしていることですが、真の終戦は決して昭和二十年八月ではない、サンフランシスコ平和条約で連合軍による占領が終わった昭和二十七年四月である。だから裁判が行われた当時は戦争中である。戦争中に法務死を遂げられた方々は戦没者と同じである、ということを国が国会決議を以て認定しました。戦死者として認定されたからには、靖國神社はその英霊について合祀の手続きを開始するのが使命であった。それだけの手続きをきちんと踏んでいるのです。にもかかわらず政治家たちはそのことをしってか知らずか問題を蒸し返す。あるいは、中曽根さんの時に靖國懇による答申に基づいて、総理の参拝は憲法に抵触しないと閣議決定した。それが今日まで政府の公式見解になっているにもかかわらず、連立与党の公明党などは「意見の疑いあり」などと無知丸出しのことを言っている。

長谷川 それが違憲ならば公明党自体がとっくに違憲なんですね。まさに政教一致の党ですから。それはともかく、歴史の積み重ねや法的手続きというものをまったく無視して、すでに決着済みの問題を蒸し返しているところから、ありとあらゆる場面でいろんなトンチンカンな議論が横行している。ことに私が不思議でならないのは、A級「戦犯」と言い立てる姿勢そのものが、「二度と決して戦争いたしません」という平和の姿勢とまるっきり矛盾しているんだということに、言っている本人たちが気が付いていないということなんです。「戦犯」に認定するということ自体が、戦争の一部なんですね。国際法に違反した人を国際法違反として裁くという文字通り戦犯というのは、戦争中にすでに日本人自身の手による軍事法廷で「これは軍規違反でこれこれの処分にする」と裁かれているわけです。これと東京裁判によって被告とされた人々が処刑されたということとはまったく違う。東京裁判においては、平和に対する罪、人道に対する罪というものを、戦争が終わってからあらためて新しく罪として作り(事後法)、さらに敗戦国の人間だけが対象とされた。この二つをとっただけで、この東京裁判というものが、おおよそ公正な裁判などというものではなく、その判決による刑の執行は、戦闘行為の中の非常に陰湿な種類の殺人であって、この裁判自体が国際法違反といってもいいような犯罪だったのだという、その認識をまず持ってもらわなければ何も始まらない。




(次号へつづく)









平成13年9月25日 戦友連392号より


【戦友連】 論文集