小泉総理、慙愧の靖國神社参拝の検証



英霊にこたえる会中央本部 
運営委員長 倉林 和男   
(元空将補)  




去る四月の自由民主党(以下「自民党」)総裁選挙最中の十五日、小泉純一郎候補は、対立候補で本命と目されていた橋本龍太郎候補がかつて会長をしていた東京・九段の日本遺族会を訪れ、「私が総裁に当選し総理になった場合、靖國神社の公式参拝を実現する」と語ったことから、この参拝劇は始まる。

大東亜戦争の敗戦による軍事占領下にあった昭和二十六年十月十八日に、吉田茂総理は、靖國神社に(公式)参拝を行っている。それは、本年で五十周年を迎えたサンフランシスコ講和条約調印奉告のための参拝であったが、その後、岸信介総理から田中角栄総理に至る歴代総理は、病身の鳩山一郎と急死した石橋湛山の両総理を除き、吉田総理にならって主として春・秋の例大祭に参拝している。

ところが昭和五十年八月十五日、三木武夫総理が「私的参拝」を表明しての参拝以降事態は一変し、思い出したように総理の参拝をめぐっての論争が沸騰し、多くの違憲訴訟まで提起される中で、その後中曽根康弘総理までの各総理は、「内閣総理大臣」の肩書きをそれぞれ記帳して参拝を行っていた。

そして、三木総理の私的参拝から十年が経過した昭和六十年八月十五日、時の中曽根総理は、憲法にふれない宗教色を薄めた一礼方式の公式参拝を行ったが、その直後からいわゆるA級戦犯合祀をめぐる問題が中国から浮上し、以後総理の公式参拝は行われないままに推移して、実に十六年ぶりに今回の小泉総理の公式参拝となったのである。






さて、小泉総理は、その後の総裁選中にあっても、「八月十五日には、いかなる議論があろうとも、必ず靖國神社に参拝する」。「日本の繁栄は、尊い命を犠牲にした方々の上に成り立っている。戦没者慰霊の行われる日(八月十五日)に、その純粋な気持ちを表すのは当然だ」(四・二四 記者会見)「小泉内閣は、改革断行内閣だという気持ちで取り組んでいきたい。改革には必ず抵抗する勢力、反対する勢力が出てくる。その戦は今日から始まった。抵抗にひるまないように断固、改革に立ち向かっていきたい」(四・二六 記者団へ)と、小泉内閣の政治姿勢を示した。

そして、五月十七日に至って中国政府が参拝に強く反対の意を申し入れたことに対しても、「(参拝することに)変わりない。戦没者に慰霊の気持ちでお参りさせてもらう。それは世界共通のことじゃないですか」と語り、その後六月二十日の野党四党首との討論の席にあっても、「国民の中にも、戦没者の慰霊の中心的施設は靖國神社であるという人が多くいるのも事実だ。そういう心を無視するのはいかがなものか」とも表明している。

また、同月二十五日、離任の挨拶に首相官邸を訪れた中国の陳健前駐日大使が、参拝に自制を求めたのに対しても「二度と戦争を起こしてはならないという気持ちから、戦没者に哀悼の意を捧げたい」と、語りかけている。

この不退転の「八月十五日に靖國神社へ参拝する」。「靖國神社に鎮まる英霊への熱き思い」が交叉する小泉総理の固い決意が、何故十三日の参拝となり、新たな慰霊施設の構想となったのであろうか。

ここで改めてその動向を振り返ってみると、その下地は七月に入っての山崎拓自民党幹事長ら与党三幹事長の訪中。次いで八月の野中広務同元幹事長の訪中。引き続いてこれに合流する形で訪中した古賀誠同前幹事長らの動きの中で、着々とその阻止対策が水面下で進められていたことを垣間見ることができる。

そして、それが大詰めを迎えたのが、参議院議員選挙の結果を待ち、次いで八月十日の自民党の党大会に代わる両院議員総会において無投票で小泉総裁の再選を確認したその夜から開始された。

では、その動きを、以下ドキュメント風に辿って検証することとする。






一、二日前、十三日の参拝となった背景






○東京・永田町の動き






八月十日(金)午後六時二十分、首相官邸に公明党の冬柴鉄三幹事長が訪れ、次いで野田毅保守党・山崎の両幹事長も程なく到着し、これに福田康夫官房長官も加わり、総理と与党幹事長との協議が行われた。

この夜の協議は、去る七月十一日に中国から帰国した時にもたれた報告のための所要時間が、約一時間であったのに対して、二時間余にわたって行われた。

その協議内容は、「八月十五日以外の日、できれば十八日の参拝を求める」進言で、これに対しての総理の返答は、〈「熟慮に熟慮を重ねたい。あまり時間がないが、もう少し時間を貸してほしい」〉(八・一一 産経)と即答を避けている。

そして、この夜総理は、YKKの一人である〈加藤紘一元自民党幹事長に電話〉(九・一 選択)して、来訪を求めた。







八月十一日(土)午後六時半、山崎幹事長に続いて加藤元幹事長も首相公邸に入り、YKK協議が三時間余に及んでもたれた。

〈山崎「十八日なんてとんでもない。国内は大騒ぎになり、政権が持たなくなる。」

小泉「しかし、福田も十八日がいいと言っている」

加藤「行くなら前倒ししかない。十四日だと、とってつけた感じになる。十三日の方がいい」

小泉「十三日でも十四日でも中国は駄目だと言っている」

 小泉は迷いに迷った。議論が行き詰まるたびに「やっぱり十五日に戻すか」と口走り、二人に宥められる場面もあった。〉(九・一 選択)

 〈会談終了後に加藤氏は、「首相はだいぶ迷っている様子ですね」と語った。〉(一〇・一 現代)

そしてこの日には、靖國神社に献花料として、私費で三万円を納められ、公明党の冬柴幹事長は、〈ニッポン放送のラジオ番組に電話出演し言明した。「(首相は)参拝されない。(十五日は)避けられると思う。」〉(一〇・一 文芸春秋)と述べている。







八月十三日(月)午前、福岡に帰省していた山崎幹事長は、小泉総理から急遽上京を求められて、官邸には午後一時過ぎに到着した。

〈山崎が見たのは、「十六日以降の参拝」を前提にした「総理大臣の談話」だった。山崎は福田や外務官僚に噛みついた。

「きょう談話だけ出して、いつ行くのか分からないというのでは、国内がめちゃくちゃになるぞ。それでもいいのか」

山崎の剣幕に「外交当局」はたじろいだ。その瞬間を待っていたように、小泉が「これから行く」と決断した。午後一時半過ぎのことである。〉(選択)

あっけない、安易な結末に終わり、この日午後四時半過ぎに、中曽根方式とは若干異なった一般の昇殿参拝者が入る参集所玄関から参入して「内閣総理大臣」の肩書で記帳し、手水をとって拝殿に進み、祓いをうけて中庭に下り、本殿に昇殿して一礼の参拝を行った。






○東京・永田町の動き




五月下旬〈中国の政府高官は北京で日本の阿南惟茂駐中国大使と会談し、事態打開のため、与党実力者の訪中を暗に打診した。これを受けて政府・与党は(中略)与党三幹事長が、参院選公示直前に訪中する〉(七・七 産経)こととなった。

七月八日(日)から十一日(水)の間、山崎幹事長ら与党三幹事長は、韓・中両国を訪れることとなった。その出発の三日前の五日、中国の陳健駐日大使と三幹事長との昼食会がもたれた。席上で陳大使は、公明党の冬柴幹事長に対して〈「あなたのところ(公明党)は影響力がある。最後までがんばってほしい」〉(七・七 産経)と叱咤激励した。







七月十日(火)訪中した三幹事長は、唐家(王旋)外相、銭其(王深-シ)副首相、江沢民国家主席、曽慶江党中央組織部長の順で会談し、唐外相は、〈首相の靖國神社参拝について「小泉総理はもはやYKK時代の政治家ではなく一国の首相だ。その行動は国家意志の表明であることを受け止めてもらいたい」と中止を要請した。〉(七・一一 産経)と、またしても非礼な発言をした。

また、江首席は〈「歴史問題はきちんと対処しなくてはいけない。火をつけるとただちに大きな波風を起こす可能性がある」〉(七・七 産経)と、間接的な言い回しで、強迫的に参拝の取りやめを求めている。

この一連の会談で、この時点では明らかにされなかったが、後日になって、中国側が次の提案を行っていたことが判明した。

〈仮に参拝をする場合は八月十五日を外す(中略)このほか [1] 私的参拝であることを明確にする [2] A級戦犯ではなく一般戦没者の慰霊目的であることを談話の形で示す―――も求めており、首相にも中国側の意向は伝えられている。〉(八・七 読売)







八月一日(水)〜五日(日)古賀前幹事長、公明党の太田昭弘・保守党の二階俊博両国会対策委員長が、先に出発していた野中広務自民党元幹事長と北京で合流する形で訪中し、五日に帰国した。

さて、この訪中で中国側と具体的に何が交わされたかは定かでないが、訪中した一人の太田国会対策委員長は、〈中国はかたずをのんで注視しているという感じを受けた〉(八・八 産経)と語っており、前述の古賀前幹事長と福田官房長官とが、帰国した翌八月六日に会談したのは、福田官房長官が〈野中広務元自民党幹事長の勧めで日本遺族会の副会長である古賀誠前自民党幹事長を訪ねた〉(八・一九 毎日)とあるところからも、十五日回避が焦点であったことが推測される。

また、八月八日付産経新聞が、『「靖國」中国も苦慮、田中外相に失望、揺れる”戦術”』の見出しで、北京・伊藤正記者の記事を報じているように、中国側が当初期待していた田中真紀子外相による総理説得工作は効を奏さず、驚異的な支持の下での総理の決意は変わらず、『「小泉批判」は世論を敵に回し、対中感情をさらに悪化させかねない』、『消息筋によると、中国政府は七月末以降、首相の「熟慮」と日本の政界や世論の動向を見守る方針に戦術転換した』その直後、野中元幹事長の訪中は、私的な旅行と報じられているが、中国当局との気脈を通じた人選と、その時を得た訪中であったとみることができる。








二、首相談話の出された背景




小泉総理は、当初外交的メッセージは「参拝の後に考える」としており、参拝後に〈報道各社のインタビューに口頭で答える形で参拝の目的などを説明することで、中国や韓国などの理解を求める意向を固めた〉(八・四 読売)と、報じられていたが。

しかし、〈政府・与党の一部には、「アジア諸国に明確な反戦のメッセージを送る」(自民党筋)ため、閣議決定を要する首相談話などを首相参拝時に発表する考えもあった。しかし、先の大戦については、植民地支配の道義的責任を認めた村山首相の九五年八月の談話があるため、「屋上屋を重ねるべきではない」(首相周辺)との慎重論が強く、見送ることにした〉(八・四 読売夕刊)







八月五日(日)フジテレビの「報道二〇〇一」に出演した山崎幹事長は、〈「小泉談話」を発表すべきだとの考えも表明した〉(八・六 読売)


八月十日(金)〈夜、(註・三幹事長と協議した夜)首相は「十五日参拝」を前提とする首相談話をまとめ上げ、”公約”通りの終戦記念日の参拝に向けてゴーサインを出した。(中略)当初の首相談話は、内政を担当する竹島官房副長官補のスタッフが準備した原案をもとに、首相秘書室が全面的に書き直した。文面には「八月十五日」の日付が明記され、首相本人が五回も筆を入れた。「なぜ十五日に参拝するのか」「アジアに対する思い」などを自分の言葉で切々と書きつづったという〉(八・一五 読売)







八月十二日(日)午後三時、〈都内のホテルに福田と外務省アジア大洋州局長・槙田邦彦が入り、古川(註・前述の官房副長官)も加わった。三人は、槙田が書いた原案を基に極秘裏に協議を進め、「十五日以外の参拝」準備を整えた。「ずれるなら十七日か十八日」と、槙田らが別れたのは午後十一時だった。その間、福田は、小泉との擦り合わせのため三度にわたって首相公邸との間を秘かに行き来した〉(一〇・一 文芸春秋)

〈この談話には日付は入っておらず、いつ参拝しても対応できる内容になっていた。中国が十六日以降の参拝を求めていることに注目していた外務省の判断を踏まえ、福田長官は十六日以降に参拝日をずらすよう首相に進言していた〉(八・一五 読売)







八月十三日(月)午後一時過ぎ、前述のように山崎幹事長が急遽福岡から官邸に駆けつけ、この談話を一読し、一喝した場面となるのである。

同日午後四時、この「小泉内閣総理大臣の談話」は、小泉総理の参拝に先立って福田官房長官から発表された。

約千二百字で記された文面は、冒頭に当然記述されるべきである戦没者英霊への慰霊と感謝の誠を捧げるべき言辞がなく、これに代わって、咲きに出された反日、自虐史観の村山総理談話を上回る贖罪意識の強い、最大級の謝罪の語句で綴られた国辱そのものの文書である。

加えて文脈に一貫性がなくたどたどしさすら見られ、また明らかに削除訂正すべきだった個所(十六日以降の参拝を想定し、十四日までに発表することを前提に作られた記述)、すなわち「私自らの決断として、同日(註・十五日)の参拝は差し控え、日を選んで(註・十六日以降の日)参拝を果たしたいと思っています」の個所を残したままで印刷し、発表したこのミスは、十三日の参拝がいかに慌ただしい中で決定し、行われたかの一端を覗かせている。

また、十三日の当日、小泉総理の意志で急遽加筆されたと考えられる新慰霊施設構想に関する記事「今後の問題として、靖國神社や千鳥ヶ淵戦没者墓苑に対する国民の思いを尊重しつつも、内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどのようにすればよいか、議論をする必要があると私は考えております」との個所は意を尽くしておらず、小泉総理の参拝後の記者会見での表明があって、初めて読み取ることができるものである。

そして、何故十五日の参拝が十三日の参拝になったのかについては、「終戦記念日における私の靖國参拝が、私の意図とは異なり、国内外の人々に対し、戦争を排し平和を重んずるというわが国の基本的考え方に疑念を抱かせかねないということであるならば、それは決して私の望むところではありません。私はこのような国内外の状況を真摯に受け止め、この際、私自らの決断として同日の参拝は差し控え、日を選んで参拝を果たしたいと思っています。

総理として一旦行った発言を撤回することは、慙愧の念に堪えません。しかしながら、靖國参拝に対する私の持論は持論としても、現在の私は、幅広い国益を踏まえ、一身を投げ出して内閣総理大臣としての職責を果たし、諸課題の解決にあたらなければならない立場にあります」と、文字を羅列しているが、その真意は理解されず、言い訳にもなっていない、歯切れの悪い泣き言にすぎない文面となっている。

一方中国は、〈七月下旬以降、首相の性格や世論とのかかわりから参拝阻止は難しいと判断し [1] 八月十五日の公式参拝の回避 [2] 「侵略」への反省の表明―を最低条件とする妥協案を非公式に日本側に伝えていた。

王毅中国外務次官が、阿南惟茂駐中国大使に、首相の当初計画の変更と侵略反省の談話発表に「注意を払う」と述べたのは、中国側が一定の「理解」を示したことを意味する。〉(八・一四 産経)と、及第点の評価をしていることに注目すべきである。








三、小泉・靖國神社参拝のまとめ




小泉総理の靖國神社公式参拝は、繰り返し繰り返し表明していた「八月一五日」(戦没者を追悼し平和を祈念する日)ではなく、二日前の八月十三日に急遽変更しての参拝となった。

この参拝をめぐっての評価は様々で、昭和六十年八月一五日の中曽根総理の公式参拝以降中断していた総理の公式参拝を、日は異にしたが、十六年ぶりに実現したことに対しての賞賛と、四ヵ月の長きにわたって公言していた一五日の参拝を、その直前に裏切ったことに対しての怒りとがあるが、産経新聞社が首都圏の成人男女五百人を対象に、八月十七日に電話で世論調査した結果は、参拝を十三日としたことを「支持する」が六二・四パーセント、「支持しない」が三五・〇パーセント、「わからない」が二・六パーセント(八・二〇 産経)とその評価は高い。

しかし、あれ程までに固い決意を堅持し、かつ、国民の前にその決意を披瀝していた小泉総理が、前述の談話にも「総理として一旦行った発言を撤回することは、慙愧の念に堪えません」と記しながら、何故最後まで自己の信念を貫かなかったのであろうかの大きな不信が、心に残る一事であった。

総理の側近の一人で、十五日の参拝を推進し、つんぼ桟敷に置かれていた安部晋三官房副長官は、その理由を〈「十五日参拝への反対派があまりにも(首相に)情報を入れすぎたのではないか」と述べ、参拝前倒しを主張した自民党の山崎幹事長らを暗に批判した〉(八・一八 読売)とみており、総理自身も〈参拝後、周辺に「官房長官と幹事長に一緒に(反対を)言われてどうしようもなかった」ともらした〉(八・一五 産経)と報じられているが、二人の中で強行に諌言したのは、側近の一人福田官房長官であったということができる。






諸情報を総合すると、七月の与党三幹事長、引き続いての野中元幹事長らの訪中と並行して、水面下では福田官房長官と小学校時代からの同級生であった谷野作太郎前駐中国大使と、外務省の川島裕次官、槙田アジア・大洋州局長らのごく限られた幹部と官房長官との間で、中国との対応策が極秘裡に進められていた。

いよいよ八月に入り、官邸サイドによる外務省人事も一段落し、「小泉総理の靖國神社参拝を実現させる超党派国会議員有志の会」が設立(七日)される等、十五日が目前に迫ってくる中で、官房長官と党内外の関係者の間で、「十五日参拝回避」の総理説得工作が進められた。

十日、十一日の与党三幹事長、YKK会談はその山場であり、そうした中で、十二日の最終場面での総理との対決で総理の決心変更を導き出した要因は、野中元幹事長の勧めで福田官房長官が古賀前幹事長を訪ね、同前幹事長が述べた「遺族会は、十五日の参拝にはこだわらない。十三日から十六日まではお盆です」の一語であったと読むことができる。

何故ならば、小泉総理が先ず最初に「靖國神社参拝」を表明したのは、外ならない戦没者遺族で構成する日本遺族会であり、古賀前幹事長は戦没者遺児であり、日本遺族会の副会長・会長代行で、また、靖國神社崇敬者総代の一人でもあるその人の言であったからであり、策士野中、山崎の三者の不明と大罪は、万死に値するといえよう。






さて、大きな期待を裏切る大きな失望の下での参拝であったが、十六年ぶりの公式参拝であったことは事実である。また中国は、小泉総理が見せた頑な意志と、これを支持する日本の世論を無視することができず、譲歩、妥協策を採らざるを得なかったことも事実である。

では、これらの事柄を踏まえて、今後に残された取り組むべき課題は何であろうか。


第一は、公式参拝の継続であり、単に八月十五日のみでなく、春秋の例大祭や、戦後わが国が主権を回復した昭和二十七年四月二十八日等も思慮した参拝の定着であり、ひいては陛下の御親拝の道を拓き、大御心におこたえ申し上げねばならないのである。


第二は、来日される国公賓の表敬参拝の実現である。わが国の総理は、他国を訪問した際に、その国の慰霊施設に表敬参拝している。しかるに、戦後わが国を訪れた元首が靖國神社に参拝されたのは、アルゼンチンとトンガの二国のみである。

かつて、英国のエリザベス女王が靖國神社への参拝を求めた。これを断ったのは、他ならぬわが国の外務省なのである。この国賊外務相の鬼征伐こそが、この際開始されなければならない行動なのである。


第三は、新たに戦没者の慰霊施設を建設するという愚行の阻止である。言葉は要すまい。百三十年の歴史と、今回の小泉総理の参拝を支持した多くの国民の声と、何によりも、「靖國で会おう」と散華された、殉国者英霊を冒涜する何ものでもないからである。




平成13年10月25日 戦友連393号より


【戦友連】 論文集