小泉首相の靖國参拝をいかに考えるか〔2〕




この記事は8月15日に靖國境内で実施された「第十五会戦没者追悼中央国民集会」後に行われた緊急対談の記録です。日本会議の月刊誌「日本の息吹」13年9月号より転載しました。


明星大学教授
 小 堀 桂一郎
(東京大学名誉教授)

埼玉大学教授
 長谷川 三千子






独裁国家の歴史観を認定するのか



小堀 大衆というのはどこの国もそうかもしれませんが、特に日本はヨーロッパなどと違って激しい国際関係の摩擦を国民自身があまり経験しないできましたから、大東亜戦争後に行われた「戦争犯罪裁判」というもののいかがわしさにまったくナイーブなんですね。それをいまだに正当だったかのように信じてしまっている。

しかし、現在「A級戦犯」と声高に言い立てている人たちも含めて、果たしてそれがどういう性格のものであるか、どれほど正確に知っているのでしょうか。東京裁判法廷の被告たちの中で病死され、獄死された松岡さん、永野さん、東郷さんというような方も含めて合計十四柱が靖國神社に祀られているわけですが、この方々の名前すらほとんど知らないのではないか。

私はまず中国の認識がその程度だと思います。中国には国際法遵守の観念などまったくない。したがって、東京裁判がいかに国際法を踏みにじるものであったかを知らない。また、「A級戦犯」といってもおそらく東條さんしか知らない。彼一人が元凶であったと思っている。

実は、この把握の仕方は、中国の政治をそっくりそのまま反映させている。独裁制の国ですから、たとえば蒋介石が悪かった、文化大革命は毛沢東が悪かったというのと同様、誰か一人の元凶を見つけてこれに総攻撃を加えるやり方。これを日本に適用して、開戦時の内閣首班であった東條さんひとりを悪者にしている。

日本は立憲君主制の法治国家であるという、この簡単な事実が、「人治国家」しか知らない中国人には理解できない。政党政治も、昭和十三年の国家総動員法による戦時体制移行までは、ともかくも名目を保っていたのです。議会制民主主義の国の政治体制についてまったく何の理解もない人たちの言いがかりを、なぜまともに取り上げなければならないのでしょうか。







長谷川 それに同調するということは、それは要するに日本がかの戦時国家、軍国主義国家の世界観をそのまま認定することになってしまう。

小堀 そうなんです。今日の集会でも黄文雄さんが厳しく指摘されましたが、そもそも中国に国民感情などあるのか、ということから疑わなくてはならないんですね。

インターネットが流行っているといっても、大体この問題が政治問題として浮上するまで、日本の靖國神社の存在を知らない中国人が九十九%だったでしょう。つまり、共産党政府の言い分を国民感情にかこつけて宣伝しているにすぎない。問題はそのからくりが読み取れない日本人のナイーブさです。さきほど中国人は自身の政治体制を投影して日本を解釈していると申しましたが、日本人の方もまた、「国民感情」などと言われるとそういうものがあの国にも本当にあるのかと思って自分達の国民感情を投影して、やはり中国人の気持ちになってやらなくては、ということをいう。こうなりますと、問題は文化の相互理解のギャップということになってくる。

長谷川 そうですね。ですから一度、「気持ち」という言葉は全部使わないようにして、まず論理でものごとを考えてみる。論理で考えた末、あと論理で収まりがつかないところに気持ちが出てくるというのはいいけれども、論理はどこかに置いておいて気持ちだけで話をつくりあげようとすると、それは文字通り話にも何にもならない。それが今の日本のこういう問題に対する姿勢となってしまっているという気がします。

小堀 つまり、われわれ自身がかつて、いわゆる「戦犯」の人たちを決して犯罪人とは認めなかった時代の日本人としての論理を取り戻すということです。つまり歴史観の修正ということですが、詳しく述べている余裕はありませんので、ここでは二つの書物を上げておきましょう。

ひとつはロバート・スティネット著『真珠湾の欺瞞の日』。『真珠湾の真実』という題で邦訳が出ましたが、(文藝春秋刊)ルーズベルトの陰謀を緻密な文献捜査によって立証しようとして、話題を呼んでいる本です。

もうひとつは『シナ大陸の真相』(展転社刊)という本です。昭和二年十二月までのシナ大陸でジャーナリストとして支那事変を観察していたキヨシ・カール・カワカミという日系アメリカ人の書いたレポート集で、日本が挑発にのせられてシナ大陸での戦いに引きずり込まれていった、いかに不運な国家であるか、という実情を生々しいリアルタイムのレポートで語っています。




政教分離をめぐるおかしな論理



長谷川 ただ淡々と、できるだけ詳しい事実を知っていけば、侵略戦争だったなどというような話がいかに粗雑な議論かということがおのずと見えてきます。そういうふうにして大東亜戦争を等身大の形で見ることができるようになると、戦後、日本国憲法に盛り込まれた政教分離というものが、東京裁判史観をそのまま引きずっているものだということが自然にわかってくるようになるんじゃないかと思います。

小堀 そうなんです。歴史観の修正という作業は、ただちに米軍による日本占領の意図と実態がどういうものであったかという重要な問題の再検討を促します。大東亜戦争において米英軍の心胆を寒からしめた日本軍将兵の熾烈な敢闘精神が、神道に淵源するという、ある意味では偏った、ある意味では的をついた観察が、アメリカの占領軍をして、とにかく神道をつぶすことだ、という占領政策に走らせてしまった。憲法の政教分離原則というものは、実は神道つぶしを下心とした彼等の恐怖の産物にすぎないわけです。

長谷川 政教分離というものは、憲法の条文自体が曖昧なわけで、それをどう解釈して一つ一つの判決をどう出していくかで、その中身が決まっていくというような性質のものだと思います。そうしますと、国民も裁判官もまっとうな常識をもってそれを扱うということになれば、いくらトンチンカンな条文であっても現実には、それはまったく有名無実のものになっていくということになり得るし、そうしていかなければならないと思います。

小堀 裁判官の中にも神道指令を強制されたからくりについて全く無知な人がいまして、その典型が愛媛玉串料訴訟最高裁判決の多数派意見です。いやしくも知識人であの判決文全文を読んだ人は、これはおかしいということにお気づきなんじゃないか、と思います。政教完全(・・)分離が文明国のあり方だということを平気で言っている。世界の文明の実体についての無知・無教養という他ないでしょう。

長谷川 今日では映像技術の発達によって、アメリカ大統領の就任の儀式がそのままわれわれのお茶の間に映し出される。そうしますと、もう儀式自体を牧師さんが執りしきっているわけですね。日本でいえば、首相が就任するときにまず神主さんがお祓いをして、祝詞を唱えて、はじめて首相が就任できるというような形です。いってみればそういう形がアメリカの政治なわけです。その国が政教分離の憲法を日本に押し付けて、それによって玉串料を公費から出すことも違憲である、ということをいうとしたら、これは途方もなくおかしな話になるはずなんですけれども、あの判決の中には、それを正面きって言っている裁判官もいる。「立法者」、すなわちこの憲法の制定者の意図に基づいて考えると違憲である、と。それでは、制定者とは誰かというともちろん占領軍だということになるわけで、私はあそこを読んで思わず笑い出してしまったんですけれども。

小堀 確かに法律の条文を精密に解釈しようというときに、立法者意図ということを忖度(そんたく)するということはよくありますが、日本国憲法にそれを適用すれば、それは占領政策の目的ということになる。

長谷川 法学部の定式通りに立法者意図といっているのでしょうが、本人がどんなにおかしいことを言っているかということに気が付いていない。

小堀 その立法者意図というのは、簡単にいってしまえば神道を目の敵にするということにすぎない。

長谷川 さらにもう少し広げて言いますと、日本が二度と国家として立ち上がることができないように、という、それが立法者意図です。

小堀 占領目的の究極の意図がそれで、それに合わせて政教分離原則も押し付けられたというわけですね。




公式参拝の定着化へ向けて言論戦を戦いぬけ



長谷川 その辺りからしっかりと説き起こしてそれを国民の常識にしてしまわないと、首相が安んじて春秋の例大祭に公式参拝をすることが当然であるというところにもっていけない気がします。

小堀 完全政教分離を言い立てる側の人が、国立墓地構想を言うのは矛盾も甚だしい。なぜなら、墓地を建設すること自体、立派な宗教的行為ですから。無宗派(・・)の墓地ならありえますが、無宗教(・・)の墓地というのはありえない。墓地は即ち宗教的施設です。

長谷川 慰霊塔にしても、「慰霊」ということ自体、完全な無宗教となれば意味をなさない。一種の哲学的論議でいうところの「論理的不可能」というものです。

小堀 ですから国立墓苑構想というのは論破できる。ただ論破可能というのは、相手に理性がある場合のことで・・・

長谷川 憲法にしても何にしても、論理的にはとっくに破綻していることがまかり通っていますからね。

小堀 つまり、国立墓苑などが建てられてしまうということは、日本という国の政治的理性が破綻したということになるのです。そうなれば、わが国は中国のレベルにまで国そのものの品格が失墜してしまいます。中国は論理も道理も理性も何もない国です。つまりいくら論理が破綻していようが、専ら政治的必要がものを言う国家である。そういう中国と同じ水準になってしまう。

長谷川 中国の場合は政治的理性が全部なくって、ただ、建前としての共産主義というイデオロギーは残っている。日本の場合は、そのイデオロギーすらない。となれば、よりグロテスクな混沌とした社会になってしまうおそれがあります。







小堀 そういう混沌には、我々道理の感覚の伝統を有する日本人は耐えられないはずです。そうならないためにも我々はあらゆる智恵を絞らなければならない。さきほどアメリカの大統領の例をお出しになったので思い出したんですけれども、この秋にはブッシュ大統領が日本を訪問されると聞いておりますが、そのときに小泉総理がブッシュ大統領を靖國神社に案内して、お参りしていただくことはできないか。それは小泉さん自身がアーリントン墓地を訪れたことの答礼として当然の国際慣例だと思うのですが。

実は昨夜、ドイツのクライン孝子さんと電話で話したときに、昭和六十年(一九八五)、レーガン大統領がドイツを訪問したとき、コール首相がビットブルグの戦没者墓地に大統領を案内されたときのことが話題になりました。その墓地にはナチスの戦死者も葬られていて、ユダヤ人団体から大変な反発がありましたが、それでもコールさんは山の様な脅迫状や脅迫電話に耐えてそれを敢行した。それによって大戦以来の米独関係は健全に復元できたと見られています。これが契機となって湾岸戦争のとき、ドイツの多国籍軍への貢献というものも演出できました。

私は、ブッシュ大統領の来日時に小泉首相がご案内して、靖國神社への参拝が実現するということになったら、真の「終戦」以来五十年目に日米の完全な「和解」が成立し、それが東アジアの安全保障体制の要である日米関係にどんなに大きなプラスになるかと思います。







長谷川 それにしても、今回の靖國神社参拝に対しては、アメリカの態度は大変悪かったという気がします。ワシントンポストもそうでしたし、朝日新聞が大きく取り上げた元国防次官補のジョセフ・ナイ氏の談話などは、ほとんど中国の言い分をそのまま聞けといわんばかりの論調でした。日本政府はアメリカ政府に対して、それは決してアメリカの公式見解とは違うという言質を取っておくなどの外交努力をすべきでした。我々としてできることは、外に向けてあるいは内に向けて、ますます発信能力を高めていかねばならないということですね。

小堀 言葉による戦いに敢然と打って出る以外ない。私も言論人のはしくれの一人として、日本の現状に対して絶望的になることも多々ありますけれども、ここでくじけてはいけない。筆が折れても舌が枯れても言い続けなくてはならない、と思っております。




(終)









平成13年10月25日 戦友連393号より


【戦友連】 論文集