国立慰霊施設の新設構想に反対
― むしろ首相の靖國神社参拝の定着を ―



国学院大学教授  大 原 康 男







一、問題の発端



周知のように、自民党総裁選の最中から「八月一五日には靖國神社に参拝する」と明言してきた小泉純一郎首相が、突然、その二日前の十三日午後に参拝したことで、各方面に大小さまざまな波紋を投げかけました。その中でも、首相参拝に合わせて発表された「談話」に、「内外の人々がわだかまりなく追悼の誠をささげるにはどうすればよいか、議論をする必要がある」とあるのを受けて、急遽浮上してきたのが戦没者慰霊の新施設の整備構想をめぐる議論です。新聞報道によれば、できるだけ早く福田康夫官房長官の下に私的懇談会を設置し、具体的議論に入るとのこと。

実は、この問題は、去る六月二十日に行われた国会での党首討論において、小泉首相の靖國神社参拝に反対してきた鳩山由紀夫民主党代表が、千鳥ヶ渕戦没者墓苑を拡充することを含めた国立墓地の新設を提案し、また、土井たか子社民党々首も同墓苑を整備して国賓などを案内するよう求めたことが伏線となっています。いずれも憲法問題だけではなく、中国などの近隣諸国の意向を配慮して、靖國神社に代わる施設を別に設けようとする意図から出たものであることは言うまでもありません。

これに対して小泉首相は、「国民の中にも、戦没者の慰霊の中心的施設は、靖國神社であるという人が多く居るのも事実だ。そういう心を無視するのはいかがなものか」と答え、靖國神社参拝を行なう意思をあらためて強調する一方、連立与党に対する配慮もあってか、二十五日の参院予算委員会では、公明党議員の同様な要望に、「貴重な意見だと思う」と同調したため、(にわ)かに論議が広がりました。もっとも、そのすぐあとに行なった欧米外遊中に、本件に関する小泉首相の姿勢がトーンダウンしたため、一度は下火になったのでしたが、それが装いを新たにして再登場したというわけです。




二、世界における戦没者追悼施設の類型



新たな施設の形態をどのように構想していくのか、それはこれからの話でしょうが、その前に一般論としてこの種の施設のありようを少し考えてみたいと思います。いまさら言うまでもなく、戦争という国家の非常事態に際会してかけがえのない生命を捧げた人々に対し、敬意と感謝の念を込め、追悼・慰霊の意を表することは人類普遍の営為ですが、その形式には大きく分けて次の三つの類型があります。


(1)祠殿型


戦没者の霊を特定の祠殿に祀って表敬・慰霊する形式で、我が国の靖國神社・護国神社がその代表ですが、これに類する外国の事例としては台湾の台北にある忠烈祠が挙げられるでしょう。宮殿式の殿宇を中心にして鐘楼・廻廊・拝殿・位牌殿から成る荘厳な施設です。


(2)墳墓型


戦没者の遺体・遺骨・遺髪などを埋葬して敬悼と感謝の意を表する形式で、個人墓もあれば、合葬墓もありますが、欧米には、選ばれた姓名不詳の一戦没者の遺体をもって全戦没者を代表する「無名戦士の墓」というものがあります。最もよく知られているのは米国のアーリントン国立墓地内にあるもので、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争の四つの戦争につきそれぞれ一体、計四体が埋葬されています。


(3)記念碑型


一般に記念碑とは、人間の持つ記憶を消さないよう記録するために、石(あるいは金属など)の表面に文字や文章を刻んだものを指し、この形式の施設はこうした戦没者に対する慰霊と顕彰の思いを後世に伝える目的で建てられるのですが、戦没者の霊が常在する祠殿型、戦没者の遺体などを葬った墳墓型とは性格が少々異なります。ロンドンのホワイト・ホール通りの中央に建つ戦没者記念碑(The Cenotafe)がその代表と言えましょう。(但し、この記念碑はウェストミンスター寺院内になる「無名戦士の墓」と一体のものとして観念されています)。


以上、紹介してきたような施設において行なわれる追悼行事が、特定の宗教的儀式を伴うことが少なくありません。たとえば、アーリントン墓地での定例の戦没者追悼式は、円形野外チャペルで一年に三回行なわれ、従軍牧師・神父などが奉仕するユダヤ・キリスト教式であり、ホワイト・ホールでの追悼式も英国国教会ロンドン主教の司式によって営まれるという具合。




三、我が国における過去の論議の経緯と問題点



さて、靖國神社に代わる戦没者追悼のための新たな施設を建設しようとする論議は、これまでにも何度かありました。たとえば、中曽根康弘首相(当時)の公式参拝を導くために設けられた昭和五十九年〜六十年の「閣僚の靖國神社参拝問題に関する懇談会」(略称「靖國懇」)での議論や、平成十一年の野中広務官房長官(当時)による”A級戦犯”分祀論に触発されて出てきた新施設案です。

しかし、この論議は「靖國懇」ですでに決着がついたものと考えていいのではないでしょうか。というのも、「靖國懇」の一委員が次のように述べた途端、議論がほぼ終わってしまったというからです。


〈私はときどき九段界隈を散歩することがある。いつ行っても千鳥ヶ渕墓苑には犬ころ一匹もいない。ところが、靖國神社には必ず誰かが詣でている。千鳥ヶ渕墓苑ですらこの通りだ。新しい施設を作ったところで誰が訪れるだろうか〉

「靖國懇」の報告書でも「この新たな施設の設置そのものは十分に考慮に値することであるが、かかる施設が設置されたからといって、大方の国民感情や遺族の心情において靖國神社の存在意義が置き換えられるものではない」と結論づけています。さきの小泉首相の一連の答弁も、この報告書の一節を踏まえてのことかもしれません。

次の野中案をきっかけに生れた新施設案もすぐに(しぼ)んでしまい、今回の議論もこの点が全く克服できていません。報道されているところによれば、今回の構想は(1)宗教性を持たない記念碑的な施設とする(2)墓地にはしない(3)靖國神社にまつられている戦没者の「分祀」を求めず、千鳥ヶ渕戦没者墓苑の遺骨も移さないということを前提にしているとのことですが(「読売」平一三・八・一七)、まさしくこれは先記した三つの類型のうちの記念碑型を目指していることになります。いわば、昭和四十年以降、毎年日本武道館で行なわれてきた全国戦没者追悼式の祭壇の中央に建てられる「全国戦没者の霊」という標柱を、石かコンクリートで恒久化することと何ら変わるところがありません。

戦没者の霊とも戦没者の遺体や遺骨とも、直接の関係を何ら持たない独立した新造物―――このようなものに国民の関心がどれほど寄せられるというのでしょうか。靖國神社には年間六百万人もの参拝がありますが、千鳥ヶ渕戦没者墓苑には公称でも15万人しか訪れていません。(いわ)んやこのような新施設においておや、と言わざるを得ないでしょう。

アーリントン墓地の「無名戦士の墓」に外国の元首や要人が詣でて花輪を献ずるのは、そこが米国人にとって戦没者追悼の中心的施設であることを知っているからです。日本人が戦没者追悼の中心的施設と考える可能性はほぼ無きに等しく、年に何回かの儀式以外に普段はほとんど訪れる人もありそうにない新しい慰霊施設に、外国人を案内することなど非礼きわまるではありませんか。




四、千鳥ヶ渕戦没者墓苑の本質と靖國神社



しかしながら、この問題が何度も何度も蒸し返されるのは、千鳥ヶ渕戦没者墓苑と靖國神社の関係についての理解が必ずしも十分にゆきわたっていないことが背景にあると思われます。

よく知られているように、同墓苑は、終戦後、外地に派遣された軍隊の帰還とともに内地に持ち帰られ、あるいは政府や民間団体による遺骨収集等によって集められた戦没者の遺骨のうち、「遺骨自体が誰のものであるか判明できないもの」と「遺骨の身元は残留遺品などで判明したけれども、遺族が不明で引き取り手のないもの」(約三十四万体)を収容した合葬墓です。

まさに国立の無縁墓地とでもいってよい施設で、昭和三十四年三月二十八日に竣工、併せて追悼式が営まれました。その後、昭和四十年以来、毎春同墓苑において納骨ならびに拝礼式が厚生省主催で行なわれ、首相はじめ閣僚や政府関係者が公式に参列していますが、そこに収められている遺骨は支那事変以降の戦没者に限られており、その意義は決して軽視してはならないものの、幕末維新期の国事殉難者から今次大戦に至る戦没者の霊(二百四十六万余柱)をまとめて合祀している靖國神社にとって代わるような存在では毛頭ありません。

しばしば誤解されていますが、文字通り身元が全く不明の遺体を安置して戦没者を代表させる、さきほど紹介した「無名戦士の墓」とも性格は異なります。

ちなみに、同墓苑で行なわれる拝礼式に土井社民党々首はここ三年ずっと欠席しており(今春は代理出席)、民主党の鳩山代表、公明党の神崎武法代表も、昨年・今年とも本人は欠席しています。千鳥ヶ渕戦没者墓苑を重視しているはずのこれらの人々のこうした姿勢を見れば、どこまで本気で新たな施設のことを考えているのか、首を(かし)げざるを得ません。

仄聞するところによれば、小泉首相が共感を示した同墓苑の「拡充」も、厚相時代に余りにもみすぼらしく見えたのをもう少し立派なものにしたい、ということに真意があるといわれ、それはそれで結構なことですが、そのこと以上に大きく取り上げるべきではないでしょう。




五、むしろ靖國神社参拝の定着を



ここで国立慰霊施設の新規建設に反対する論拠をまとめて掲げておきましょう。

まず、国民の戦没者追悼の思いをいたずらに混乱させるおそれが多分にあることです。もちろん、米国にもアーリントン墓地以外に、英国にもホワイト・ホール以外に戦没者のための施設が多数ありますが、それぞれの国の中心施設がどれであるかはその国民の間で自明のこととされており、そうした国民意識に基づいて国が戦没者のための追悼儀礼を行なってきている点では、世界的規模で共通しています。

しかるに、我が国では中心となる祠殿型の靖國神社が厳然として存在する上に、限られた意義にとどまるとはいえ、墳墓型の千鳥ヶ渕戦没者墓苑もあるにもかかわらず、さらに記念碑型の新施設を建設しようというのですから、単に屋上に屋を重ねるという国費の無駄遣いになってしまうだけにとどまらず、国民の戦没者追悼の思いをますます複雑化させる結果となるのは必定であると言わねばなりません。

とりわけ、憂慮に堪えないのは、先に述べましたように、靖國神社と千鳥ヶ渕戦没者墓苑の性格や機能の違いは明らかになっており、互いに両立しうる存在であると言いうるとしても、今回の新施設は靖國神社と本質的に競合し、矛盾する存在となる可能性が非常に高いことです。このところが本構想の致命的な問題点であり、私たちがその建設に反対する最大の理由にほかなりません。

次に、繰り返しになりますが、新施設に対する国民の関心が高いものになるとは到底予想できず、そのような施設に外国人を案内して表敬・慰霊を求めることの非礼さに今一度目を向けるべきでしょう。

また、このような構想が出てきた背景には憲法問題とともに、いわゆる”A級戦犯”合祀問題を解決しようとする意図があるのですが、すべての戦没者を対象とする全国戦没者追悼式の対象には当初から”戦犯”も含まれていたことを想起すれば、この新施設においてそうした人々を排除するというような”死者の選別”が許されるはずがないではありませんか。したがって、新施設の建設もこの問題の解決には直接結びつかないのです。

何よりも注目すべきなのは、内外の執拗で激しい参拝反対の圧力に抗して、曲がりなりにも靖國神社への参拝を果たした小泉首相に対する国民の支持率の高さです。二、三の世論調査だけで結論を急ぐのは禁物ですが、たとえば、共同通信が八月二十日に配信した「全国緊急電話世論調査」の結果は次のようなものでした。

問 小泉純一郎首相は靖國神社の参拝で、終戦記念日の十五日を避けて、十三日に参拝しました。このことについてどう思いますか。次の中から一つだけお答えください。

十三日の参拝がよかったと思う  五〇・五%

十五日に参拝すべきだったと思う 二三・六%

参拝すべきではなかったと思う  二三・二%

その他              〇・三%

分からない・無回答       二・四%

一目瞭然のことですが、参拝の日が十三日であれ、十五日であれ、参拝支持は七四・一%で、参拝反対の二三・二%の三倍以上の圧倒的多数を占めています。また、反対の理由として挙げられたのは「中国・韓国などとの友好関係に影響」が半数近くに達し、「A級戦犯がまつられているから」というのは、反対理由の中でも二十五・三%を占めているに過ぎず、さらに全体から見れば五・九%にとどまり、少なくとも、国内的にはこの問題は過去のことになりつつあると思われます。また、同日に発表された毎日新聞の世論調査の結果でも、十三日参拝を「よかった」とするのと「十五日にすべきだ」とするのとの合計が七十%を超えており、同様な傾向が見てとれましょう。

一方、中国・韓国は予想通り強く抗議してきましたが、東南アジアでは一部の華人社会で反発があったものの、逆にタイ、インドネシア、ベトナムなどの国々の首脳は小泉首相の靖國神社参拝に一定の理解を示し、何が何でも靖國神社参拝に反対し続ける国は東アジアのごく一部に限られている、というこれまでの実相があらためて浮き彫りにされました。

小泉首相はこうした内外の真実の声に耳を傾けて、靖國神社に代わるべき新たな慰霊施設を建設するというような不毛な構想には早々に見切りをつけ、近隣諸国に対しては粘り強く説得する努力を重ねつつ、首相の靖國神社参拝が時とともに定着していくよう邁進すべきではありませんか。




六、戦没者の思いは靖國神社に



最後に一言。戦没者追悼ということで何よりも大切なのは、祖国のためにかけがえのない生命を捧げられた戦没者の思いを、今生きている私たちが真摯に()み取ることではないでしょうか。

多くの人々が「今度会うのは靖國神社で」との思いを残して国のために散華しました。その一人である植村真久海軍大尉に関わる一つの挿話を紹介しましょう。植村大尉は、第十三期海軍飛行予備学生出身で、神風特別攻撃隊大和隊の一員として昭和十九年十月二六日にレイテ海上で戦死しましたが、出撃を前にして愛娘素子さんに宛てて次のような遺書を書き残しました。

〈(前略)素子というふ名前は私が付けたのです。

素直な心のやさしい思ひやりの深い人になる様にと思って、御父様が考えたのです。

(中略)私は御前(おまえ)が大きくなつて、幸になるまで見届けたいのですが、若し御前が私を見知らぬままに死んでしまつても決して悲しんではなりません。御前が大きくなつて父に会ひたいときは九段にいらつしゃい。そして心に深く念ずれば必ず御父様の顔が御前の心の中に浮かびますよ。(後略)

それから二十二年余りたった昭和四十二年四月十二日、父の母校である立教大学を卒業したばかりの素子さんは、靖國神社の拝殿において、母や家族、友人や父の戦友たちの見守る中で、六歳の時から習い始めた日本舞踊を舞い納めました。靖國神社に鎮まる父植村大尉の感激はいかばかりであったでしょうか・・・。

小泉首相の愛読書の一つが、「あゝ同期の桜」(毎日新聞社)であり、「特攻隊に比べれば、総理の苦労は何でもない」との心情を国会で熱っぽく吐露しています。「花の都の靖國神社 同じ梢に咲いて会おうよ」と歌って散って行った人たちとの約束を違えて、別の施設を建設するなど考えられないではありませんか。

(終)



(注) この記事は、「小泉首相の靖國神社参拝を支持する国民の会」発行(平成13年9月30日)の小冊子を転載いたしました。





平成13年11月25日 戦友連394号より


【戦友連】 論文集