新 年 所 感



副会長  佐藤 博志




皆様方には、皇室の弥栄を象徴する昨年12月のご慶事奉祝の余韻に浸りつつ、ご家族お揃いでお健やかに新年をお迎えになられたことと、心からお慶び申し上げます。

内外の騒擾とは打って変わって、街行く車の姿も少なく穏やかな陽の光に包まれて一時の静寂の中、(みやこ)東京の人々は新しい春を迎える幸運に恵まれた。取り分け恒例の戦友連の靖國神社参詣の一月三日は、雲一つない全くの日本晴れ、神社側のご配慮により、参列者六十六名は拝殿内に整列後、西田会長の年頭のご挨拶を拝聴する。「本年は戦友連の最後の年である。その有終を全うするよう全力を傾けよう」との直截簡明な激励の言葉に『ようしやるぞ!』と(ほぞ)を固めたものは私一人ではあるまい。修祓(しゅうばつ)を受け、茣蓙(ござ)敷きの中庭の中央を通り本殿に参進。神鏡を御前に神職の祝詞奏上の間、亡き戦友の御霊に志し半ばにして組織的活動に終止符を打つことをお詫び申し上げ、組織なき後も英霊の慰霊顕彰に夫々の立場で精進し、そのご遺志を受継ぎ祖国再建に邁進することをお誓い申し上げた。会長の玉串奉奠(ほうてん)に続き、一同二礼二拍手一礼にて拝礼、その決意の程を固め退出、お供物・破魔矢を拝受して流れ解散した。






さて、今年の干支(えと)壬午(みずのえうま)で激動の年であると言う。あの元禄の大平の夢を破った「赤穂浪士の吉良邱への討ち入り」は三百年前の元禄十五年(一七〇二年)であった。「忠臣蔵」の解釈については諸説あるが、我々がストーリーを熟知しつつも涙ながらにその観劇に熱中するのは、私を捨てて公に殉じた大石良雄以下四十七義士の武士道精神に魅入られるからに他ならない。それから二百年後の二十世紀初頭、新渡戸稲造は英文で「武士道」を著し、日本人の精神の基盤は武士道にありとし、その最高の支柱を「義」においた。そして時代の頽廃を述べる時の常套句は「文臣銭を愛し、武臣命を惜しむ」と中国の宋史・岳飛伝の言葉を引用した。

これはまさに今日のわが国の精神的荒廃の表現そのものではないか。昨年九月の米国中枢部同時多発テロ行為の発生に触発されて、国家安全基本法の制定や有事法制の整備が今与野党間で論議の的となっているが、その必要性もさることながら、私の最も恐れていることは、国家防衛の原点である殉国の英霊の慰霊顕彰に関する小泉政権の誤った思想、即ち靖國神社に代わる「国立慰霊施設」の新設構想の成否についてである。小泉総理の指示の下、福田官房長官は昨年末、民間人による諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させた。その談話で曰く「設置目的―施設の必要性、必要とした場合の施設の種類、名称、設置場所等具体的に論議してもらう」とし、また小泉首相の来年以降の靖國神社との関係については、「首相の考え、信条によって首相が決めることであり、直接関係づけることはない」と強調した。






そもそもこの問題は、昨年の小泉首相の靖國参拝に対する内外からの非難に屈し、その対策として小泉総理自身が「何のわだかまりもなく外国の元首などにも参拝してもらう施設云々」が発端であり、この福田談話の後半部分「今後の小泉総理の靖國参拝問題と直接関係はない」との言分は論理の矛盾も甚だしく、まさに「語るに落ちた」というべきで、又その長ったらしい「懇談会」の名称も、今多くの国民意識の中にある「戦没者の慰霊追悼の中心的施設は靖國神社である」との視点を恣意的にぼかし、靖國推進派の追及の矛先の逃げ場を作る一方、一般国民に対してはその意識操作により、彼等の意図実現を計る老獪な戦略であることを見逃してはならない。選ばれた今井敬経団連会長(現新日鐵会長)を座長とする十人の顔ぶれを見ても、坂本多加雄学習院大学教授以外はおしなべていわゆる「進歩的文化人・学者」の範疇に属するものと私は見ており、その結論は既に予測するに難くない。一端答申が出されれば、当局筋は臆面もなく国民の意識に従ってとの大義名分の名において「国立慰霊施設」の新設を公言するであろう。

その時わが国の大義に殉じた二百四十六万余柱の靖國のご祭神に対する国家の責務はどうするのか。一宗教法人として放置するとすれば、それは独立主権国家としての日本国の崩壊を意味する。その結論がこの年末までに出されようとしている。まさに国家危急存亡の大乱である。生き残された我々は、英霊のご遺志を後世に伝えるためにも、かかる事態の発生を未然に粉砕すべく文字通り命をかけて戦わなければならない。






平成14年1月25日 戦友連396号より


【戦友連】 論文集