萬歳!! それはよかった
― 昭和天皇記念館いよいよ建設へ ―




長年成否が案じられてきた昭和聖徳記念館建設が、去る4月29日、九段会館で開かれた昭和聖徳記念財団主催の集いの席で正式に発表された。

このことについて桜内義雄財団会長は、当日の挨拶の中で概要次の通り述べられた。

「財団発足以来十一年余、大きな事業として昭和聖徳記念館の建設を呼びかけ寄付を頂戴し、どこへ建設したらよいか協議を重ねたり、検地したりして努力を続けて参りました。そして昭和天皇ご即位五十年を記念して造られた『国営昭和記念公園』内に記念館を建設できないかと、所管官庁の国土交通省に折衝するほか、主務官庁の文部科学省や宮内庁とも折衝、調整を続けた結果、去る4月23日、扇千景国土交通省の『国営昭和記念公園に昭和天皇記念館(仮称)を設置する』という発表を見るに至りました。長引く経済不況の折から、大変難儀を重ねていただけに、募金額に見合うような形で、記念公園内に記念館が設置できることは、我々責任者はそっと胸を撫で下ろしている次第です。

寄付金の免税期間も本年十月十四日まで頂いておりますので、最後の馬力をかけて立派な記念館を造るべく努力を続けて参りたいと思っています。




昭和天皇記念館(仮称)の概要



【位置】東京都立川市、昭島市の二市にまたがる国営昭和記念公園・緑の文化施設ゾーン内。(JR立川駅より徒歩10分)

【規模】約一三〇〇平方メートル(内展示スペース1000平方メートル)。国土交通省文化施設ゾーンの一部を記念館として提供を受ける。

【総事業費】約14億円。【工期】平成16年度完成予定。

【名称】「昭和天皇記念館」の予定。当初八王子市内建設を予定した時は「昭和聖徳記念館」の予定であったが、今次の計画変更に伴い、記念館の主旨を一層簡明に表現するため昭和天皇記念館(仮称)と改められた。

【国営昭和記念公園の概要】昭和天皇在位50年記念事業として昭和58年設置、皇室とのゆかりも深い。年間入園者270万人と利用者は多い。豊かな緑に恵まれ、武蔵野陵への道筋に位置する。このたび建設される「緑の文化ゾーン」は、「都市における緑の文化の創造と情報発信」を基本テーマとした機能、運営を目指している。





昭和天皇記念館(仮称)建設国民募金
私どもの事業は、一人でも多くの皆様のご参加とご協力をいただかなければなりません。何とぞご賛同ご協力をお願い致します。
【申し込み先】
「昭和天皇記念館」建設委員会事務局
  電 話  03-3211-2451
  FAX  03-3211-7747
【払込み方法】
郵便振替  00180―3―84623
昭和聖徳記念館建設国民募金口座あてに、ご送金ください。







昭和天皇が愛された馬たち






まずは明治帝の木馬から



昭和天皇のご乗馬は、幼児の木馬だった? 昭和天皇が四歳で川村純義伯爵邱から青山の皇孫仮御殿に移られた明治三十八年(一九〇五年)から、十五歳になられた大正五年(一九一六年)まで十一年間、養育係として仕えた足立たか(のちの侍従長、首相・鈴木貫太郎夫人=鈴木孝)の回想(「天皇・運命の誕生」)がある。

「明治帝は、どうしても将来は乗馬する機会が多いからと、大きな木馬をお二方(皇孫さまと淳宮、のちの秩父宮さま)に進ぜられました。皇孫さまは、よくその木馬へお乗りになってお遊びになりました」

「それから後、私が出ましてじきでございましたが、伊藤博文さんが朝鮮馬の小さいのを御献上になりまして、青山の屋根馬場でよくお召しになっていらっしゃいました。皇孫さまが五つか六つの頃でございました」

伊藤博文は明治三十八年十二月に韓国総監府が設置されると初代総監に就任、同四十二年まで務めているから、その頃の話である。




馬術もひとつの健康法



学問以外にも、武課、体操、馬術、軍事講話といった科目もあった。この頃、昭和天皇には、新聞代わりに東宮職で月一回雑誌型『ぬき穂』という本を差し上げていたが、大正七年一月の創刊号には「軍馬の話(騎兵中尉筑紫次郎)」「馬の特性とその愛護」という記事も散見される。

御学問所で「馬術」を担当した御用掛ははっきりしている。

根村 当守(軍馬監)
     大正三年四月〜同九年十一月

壬生 基義(陸軍騎兵中佐・伯爵)
     大正三年四月〜同十年三月
の二人である。当代一流の方であり、しかも二人ともほぼ御学問所時代の全期間を通じてご指導している。

この頃のことであろう、櫻内義雄・昭和聖徳記念財団会長(元衆院議長)は「・・・昭和天皇が皇太子であられた頃の東宮御所は東京高輪にあり、裏門は魚籃坂にあって・・・皇太子殿下は三田の有馬ヶ原へ乗馬姿颯爽としばしば散策にお出ましでした。三田綱町に慶応幼稚舎があり、脇の大きな坂を上ると有馬ヶ原で、そこへ行かれる皇太子殿下を幼稚舎生の私共が校門へ出て萬歳萬歳とお迎えしたものです」(出雲井晶編著『昭和天皇』)と書いている。

昭和天皇のスポーツについては、相撲や水泳、テニス、生物ご研究にともなうご散策などが語られるが、ご乗馬も大変好まれた。戦後でも、皇居内の馬場で障害物跳馬に挑まれるお姿が残っているほどの、なかなかのお腕前なのである。ご乗馬は、若い頃から親しまれた、健康法の一つでもあったようだ。

今上陛下は東宮時代の学習院大学で、馬術部主将を務められたお腕前、皇后陛下も乗馬をたしなまれる。




白馬の白雪号



昭和元年に即位され、同三年に皇居に移られると、さすがに身近にご乗馬姿を拝見することはなくなり、陸軍恒例での観兵式などのご乗馬姿ぐらいになる。摂政宮時代の大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災では、九月十三日には馬に召され、一番被害のひどかった上野公園、日本橋方面の被災地をまわられ、被災者を励まされている。

馬を詠まれた御製は殆どないが、大正十二年「暁山雲」の御題の御製に

 あかつきに 駒をとどめて
           見わたせば
        讃岐の富士に雲ぞかかれる

がある。しかし皇居内には馬場もあり、ご乗馬にはこと欠かない。

昭和時代になり、終戦まで何頭にも騎乗されたがそのなかに外国産の白馬(芦毛)二頭がいた。それまで天皇のご乗馬は必ずしも芦毛ではなく、栗毛、鹿毛もいたのだが、白馬が強く印象づけられることになった。

一頭は大正五年ハンガリー産のアラブ種「吹雪」号で、遊佐幸平氏が購入、大正十三年(一九二四年)末に主馬寮に入寮。翌年初めてお召しになり、昭和八年(一九三三年)に御料牧場に移管するまで、二百五十四回騎乗されている。

もう一頭も大正十年ハンガリー産のアラブ種「白雪」号で、佐藤達次郎男爵が遊佐幸平氏に依頼して購入、大正十五年に献上した。その年五月に初めてお召しになり、昭和十七年(一九四二年)十月に下総御料牧場に移管(昭和二十二年斃死)するまで、なんと三百四十四回も騎乗されている。騎馬民族国家ハンガリーの馬は俊敏で、当時は重種の馬と交配改良され、名馬の産出国だった。

このご乗馬回数と、昭和十八年から観兵式のご乗馬が「初雪」号になったことと合わせて、それ以前の観兵式では「白雪」号に騎乗されていたと推察される。




皇室の愛馬たち



昭和天皇が陸軍恒例の観兵式で騎乗された馬名は、いちいち明記されていないが、少なくとも昭和十八年(一九四三年)以降、終戦までの観兵式にお召しになったのは「初雪」号である。一般に白馬と表現されるが、毛色は芦毛だった。

「初雪」号の「歴史」を紹介しよう。アングロ・アラブ種の牡馬(ぼば)(雄馬)。下総御料牧場の産で、父サラブレッド種「山正」、母アラブ種「銀霜」の間に、昭和九年(一九三四年)二月に産まれた。同十二年に宮内省厩務課に移され、同十七年十二月に昭和天皇は初めて騎乗された。実は初雪はそれまで「久霜」の馬名だったが、初騎乗から「初雪」に改名されている。戦後は皇太子殿下(今上陛下)も騎乗され、ご乗馬回数は昭和天皇二十五回、皇太子殿下六回と二代の天皇に仕えた。同二十七年(一九五二年)夏、御料牧場に移管、同年十二月にご神馬として伊勢皇大神宮に牽進され、同三十二年に斃死した。二十三歳だから、平均馬齢からは、やや早死だったようだ。

昭和天皇は戦後の二十四年(一九四九年)の四十八歳までご乗馬をされたが、戦後の二十四年にかけて騎乗された他の二頭も紹介しよう。

「嶺雪」号(芦毛)と「初雪」号(芦毛)で、嶺雪は昭和十一年、初霜は昭和十二年、ともに下総御料牧場産のアングロ・アラブ種の牡馬。しかも父は「山正」なので、二頭は「初雪」号の異母弟に当たる。嶺雪は昭和二十二年、初霜は翌年に初めてお召しになり、二十四年末までに嶺雪に十一回、初霜に十回騎乗された。両馬は皇太子殿下(今上陛下)、義宮殿下(常陸宮殿下)も騎乗され、嶺雪は昭和三十一年下総牧場へ移管(同三十八年斃死)、初霜は同三十年下総牧場へ移管、同三十三年伊勢神宮へ牽進された(同四十年斃死)。これら兄弟三頭は、昭和天皇というより、皇室のご愛馬ということになるだろう。



(注) この記事は昭和聖徳記念財団の月刊誌「昭和」5月号より転載しました。






平成14年5月25日 戦友連400号より


【戦友連】 論文集