「孫たちとの会話」との出会い
―――目からうろこが・・・





奈良市 伴 尚志   







◇靖國神社へ




今でこそ笑い話になりますが、左翼思想の持ち主であった私にとって、靖國神社という存在は、行ってはならないところ、戦争を賛美した軍人たちが未だに徘徊している、前時代的な偏狭な場所でしかありませんでした。

そんな私が靖國神社に参拝するきっかけとなったのは、平成維新の会という大前研一氏が主催するフォーラムの中で、南京大虐殺はあったのか、という事に関して大論争が巻き起こり、その中で、私が常々信頼していた方が、それはなかったと思う、ということを論証されたことからでした。

南京戦に関することはご存知のとおりいまだに大論争が巻き起こるような課題ですので、ここでは触れませんが、言い伝えられているような大虐殺などなかったのということは、私の反日精神に深い亀裂をもたらすことになりました。

反日精神、それは、ことに戦前の日本に対するむやみな嫌悪に端を発しています。無意識の中にまで組み込まれたそれにしたがって、私は自身の精神生活を営んできました。その中の核となるもののひとつが、戦前の日本軍の蛮行であり、その中心が南京大虐殺であったわけです。

その核を抜いて、「もしかしたら、日本は信頼できる国かもしれない。今までの自身の定見をいったん棚上げにして、そちらの角度から日本を見直してみたらどうだろうか」という姿勢で、自分自身の思想を見直してみたとき、驚くべきことに私が日本という国に対してまったく無知であったということを発見したのでした。何も知らずに国家に対する無闇な反感を抱いたまま四十年を過ごしてきたわけです。

ただ、私は東洋医学を学んでおりますので、中国の古典とともに日本の戦前の健康法の書物なども読んでおりまして、戦前の日本人にはものすごい人物が多いなぁ、ということは、政治思想とは別にして感じておりました。

そのような背景の中、ある夕刻、近所の御陵の前を通りかかりました。「もしかしたら日本てすごい国なのかもしれない」という発想を味わいながら歩いていたため、私の反日思想に覆われた殻が少し緩んでいたのでしょう。突然、日本のエネルギーが私を貫いて降り注いでいることを感じたのでした。それは余りにも強く深く豊かなもので、全く圧倒された私は、号泣せざるを得ませんでした。自身の身にいったい何がおこったのか、不思議に思いながら。

崩壊しそうな心をあわてて閉ざしながらも私は、この力にいちおう従ってみようと心を定めました。そこで、とりあえず右翼の巣窟であるといわれている靖國神社への参拝を行ってみようと決意したわけです。




『孫たちとの会話』との出会い



反日日本人の常として、靖國神社がどこにあるのかということも知りませんでした。インターネットを使って、場所を調べ、出かけることにしました。心の片隅に怯えを抱えながらも、感覚を研ぎ澄まして。

それは、まったくの驚きでした。私の先入観にあった、軍国主義の本拠のような場所では全くなく、鳩が飛び、子供が境内を通って学校へ通う、東京のど真ん中の、少し弛緩した空気さえ漂う、平和そのものの場所でした。

いったいなんということでしょう。このような場所を反日日本人は恐れてきたのでしょうか。平和日本の象徴のようなこの場所。やさしさ、の充満しているだけの、車の喧騒にかき消されそうなこの場所を。

拍子抜けした私はそれでも「何か」を求めて、遊就館を見学しました。そこには、日本の歴史が詰まっていました。ことに明治維新以来の遺物が展示されていました。平和そのものの神社の中に戦争の記憶が塗られている。その違和感はありましたが、脉絡はつながりません。

大きな感慨を受けることもなく遊就館を出ようとしたとき、出口のところに《孫たちとの会話》という小さな冊子を発見しました。それは、電話台のような小さな卓の上に重ねられておかれ、カンパ用の小箱が前に置かれていました。何気なく手に取り、いちおう記念として持ち帰ろうと、五百円をチャリンと箱に放り込み出ようとしました。係りの若者がその音を聞いて、遠くから丁寧にお辞儀をしてくれました。そのにこやかな表情やわらかいしぐさが、私の心に豊かな何かを与えました。

帰りがけに喫茶店に入り、《孫たちとの会話》を読んでみました。日本の側からの日本の歴史、そういうものをそれまで学んだことのなかった私には、それはまさに目からうろこが落ちるような衝撃でした。このような書物を私は求めていたのだ、これによって初めて、今まで自分の中に根ざしていた反日の歴史観と対抗させて比較検討ができる。そういう思いでわくわくしました。

地元に帰り、靖國神社の記憶をたどりながら、この冊子を何回も読み返すうちに、どうしてもインターネット上に掲載したいと思うようになりました。無料で配っているものですから、インターネットで配信することも許されるであろうと思い、その冊子に掲載されていた全国戦友会連合会というところへ、電話してみました。それが、戦友連との出会いの発端です。




◇戦友連ホームページ開設



戦友連から、《孫たちとの会話》の掲載の快諾を受け、インターネットで配信することができました。と、同時に、戦友連から機関紙が送られてくるようになりました。私はこういう人間ですから、私のような者が、戦友連の会員になる資格があるなどとは思っておりません。ただ、御親切にお送りいただいている《戦友連》誌の中には、私が全く受け取ったことのない情報がたくさん含まれていました、そこで、それをインターネットで配信することの許可を受け、それを配信し始めました。戦友連のホームページはこの積み重ねでできてきたものです。

私にとってそれは、ただただ、勉強させていただいている、日本に対する、歴史の継続性に対する無知を開いていただいている、その日々でありました。

半年ほどそのようなことを続けていく中で、戦友連の公式ホームページを作成しようという話がおこりました。それまでは、広告の入る無料のホームページ掲載場所を使用していたのですが、広告はまずい、又、戦友連のアドレスがほしいということで、その手続きを行い、引き続きホームページを作成させていただくこととなりました。それまで、電話とFAXだけの連絡で、誰ともお会いしたことはなかったのですが、初めて会長と副会長にお会いするために東京へ出かけました。

私にはこれといってお話しすることもなく、ただ、公式ホームページを作成するのであるから、どのような人間が作っているのか、顔を出しておかなくてはまずいだろうという程度の考えでした。待ち合わせ場所にはすでに会長がおられ、にこやかに座っておられました。

歴戦の勇士、あるいは、このような会を立ち上げて苦労された人物という強烈な印象はなく、ただ裸の一人の人間として眼前にゆったりと座っている西田会長を見たとき、その謙虚さに驚くとともに、まったくもってお一人の素敵な懐かしい祖父に出会ったような印象を私は受けました。

持って行ったパソコンを開いて現在のホームページの作成状況をご説明し、あっという間に時間が過ぎ去っていきました。帰り際に握手していただいた、その手のぬくもりが私にはとてもありがたく、今でも励みになっております。




◇靖國神社を国の手で祀ってもらいたい、
という活動の意味するもの。



靖國神社は本来宗教施設ではなく、神道の様式をもって殉国者に対して慰霊を行う施設でした。明治政府は政教分離を基本方針として国家運営を行っていたわけです。それゆえに、あらゆる宗教の人間が区別なく祀られる場所と、靖國神社はなり得ました。

神道様式による祭祀とは、元首としての天皇陛下が殉国者を誠実に祀るための、もっとも適切な方法であり、国家が、殉国者を誠実に祀る上で、日本国の歴史を鑑みれば、もっとも適切な方法です。(参考:『国家神道とは何だったのか』葦津珍彦著:神社新報社刊)

このような靖國神社を否定し、中国共産党や韓国の圧力を受けて、新たな施設を作るなどという行為は、まことに反国家的策動でしかありません。


それはさておき、身内に殉国者を持たない私のような人間にとって、靖國神社はいかなる場所なのでしょうか。

私が靖國神社につながるということは、日本につながることに外なりません。日本、この偉大なる国家の、明治維新以来の苦難に充ちた歩みを学び、日本国の苦難の歴史の中から、他国との交渉関係を学び取るということ、そのことこそが靖國神社に祀られている英霊とつながる道です。

本来であればこのことは学校教育で誇りをもって学ばれるべき事柄なのでしょうが、残念ながら占領政策によって日本弱体化を目指して作られた教育基本法と、アメリカ合衆国左翼によって捏造された日本の歴史、そしてそれを戦後五十年以上を経た現在においてもくり返す反日謀略を担うマスコミや反日知識人によって、再洗脳が日々繰り返されております。

歴史の分断を許さない、我々と祖父の世代との分断を許さない、そういう歴史的な一体感を取り戻す運動の核として、実は、この靖國神社を国の手で祀ってもらいたいという宣言は歴史的な意義をもつものであると思います。

日本という国が、歴史が、伝統が溶解しようとしている現在、このことの意義は真に高く重要であるといわなければなりません。まさに、靖國神社を我々の手の中に取り戻すことによって、日本の、国家としての柱が明確となり、これからの時代を切り開いていく勇気を子孫に残すことができるからです。




◇これから、に向けて



私のような反日日本人の蒙を開いてくれたものは、始めにお話したとおり、インターネット上での会話を眺めることからでした。誰によって直接説得されたわけではありません。というか、直接出会って説明を受けたとしても、私が変わることはなかったであろうと思います。

反日的な意識というものは、それほどまでに深く、自己の発想を構成する骨格のようになっているものです。

私にとって、この反日的な意識が溶解していく過程は、まさに自己崩壊の過程でした。自分が気が狂ったのではないかと思い、その思いに耐えてきました。そして、ただ、学び続けました。日本の歴史、伝統の大切さのこと。そして、先達の言葉を。

今、思うのは、そのような言葉が、もっとインターネット上に溢れていればよかったということです。そのような意味で、《孫たちとの会話》をインターネットで発信できたことは、私にとってほんとうに深い喜びです。

そして、戦友連の方々にありましては、その思いを、表現していただきたいと切に思います。それは、文章として私に示していただくことでも結構ですし、また、過去の戦友連誌の中から、これだけは掲載してもらいたいという論文を推薦していただいても結構です。

私が生きている間は少なくとも、この場所を保持し続ける覚悟でおりますので、どうかご協力を、よろしくお願いいたします。

(二〇〇二年十一月二七日 記)





平成14年12月25日 戦友連407号より


【戦友連】 論文集