中国の容喙






次に、昨年(昭和60年)夏の靖国神社公式参拝について、中国の反発も大きいが、これについて種々言及してみたいと思う。






抑々他国の内政や宗教問題に関し、とやこう容喙することは慎まねばならないことである。この度の靖国神社公式参拝に対する中国の(はばか)りなき容喙は、日本人の心を傷つけ、かつての戦いに対する遺憾の念さえも遠ざけしむることとなるなど、中日友好の妨げとなるものであろう。中国政府はほんとうに心からなる中日友好を望んでいるのであろうか。悲しきことではある。

中国では「靖国神社公式参拝は心情的に許されない」と言っている。一国が他国の軍隊に侵攻された場合の国民の心情がどういうものかよく判るが、それかといって中国の心情問題を取り上げるならば、喧嘩両成敗の論理のように、日本人の心情も無視できないことになる。(特に遺族の)。そして、中・日戦争の深甚な歴史的因果関係や、蒋政権が日本に対してとった中国革命の父孫文の思想にも反する遠交近攻策の数々、或はソ連の南下政策等々を顧みれば、非は一方的にあるものにあらず、又、正義も不義も相互的相対関係にあるものであって、日本にも言い分は沢山にあるのであるから、その論旨はかつての戦争の原因や是非に及び、ひとり今次大戦のみならず、日清・日露に迄さかのぼり、更に前記の如き十七世紀以降の東アジア情勢や、そして、遂には世界中の戦争の論理に迄拡げられ、戦争の本質に迄到るであろう。その結果に何が残るというのか。大切な中日友好などは、外交上の美辞だけとなるであろう。心情や感情に訴えることなく、大人(たいじん)的理性を以て現在の事態に臨み今後の対策を講じなければ、友好の永遠は望み得べくもないであろう。

尚、中国は”デモ”によって意思表示を行い、日本政府に圧力をかけ目的を達せんとしているが、そRねいよって目的が達せられるならば、日本でも”デモ”によってそれに対抗しなければならなくなるかもしれない。だが、これ程小人(しょうじん)的感情的な悲しい行為のものはないであろう。この公式参拝を実現しようとして、何年も前から運動を続けている『英霊にこたえる会』には、国民大多数の人々の”デモ”に勝る心情が集約されていることを忘れてはなるまい。

この公式参拝問題について、かつての教科書問題の時もそうであったが(新聞にも載っていた)「中国に反対運動を働きかけた日本人があったから云々・・・」という風聞を耳にする。その目的が那辺にあろうとも、以上述べて来たような靖国神社の本質に照らせば、決して他国に迄働きかけて軍国主義云々などと騒ぐようなことではない。そしてこうした外的圧力利用の在り方に対し、教科書問題や虚構の南京大虐殺問題と同様に、暗澹たるものを感ずるのはひとり私のみではなかろう。






話しは変わるが、昨年(昭和60年)の朝鮮の南北離散家族面会問題の話し合いの難しさや、離散家族の面会状況、特にヤリトリの言葉の中などに見られたように、共産主義圏の国との考え方の相違は厳しく、話し合いは容易ではないと思われるのである。そして何事によらず、凡そ先方の考え方に従わざれば『合意』は得られないであろうと思われるのである。従って中国との話し合いに当たっては、中国の体制を念頭に置いて、自由主義国である日本は、自由主義国らしき自主的自由な方策をとらざるを得ない場合が生ずるであろう。(ちなみ)に米国でも、かつてはあれほど親密に支援していた間柄の中国であるのに、体制が変わってからは扱い兼ねている有様なのである。

更にこの靖国問題に対する中国の抗議運動は、中国の内政上(思想統一・国民統一上)の必要性による処が大きいと言われているが、さりとて中国の内政に振り廻されて、日本の宗教文化や内政の自主自由が守られず、主権の尊厳と名誉をば損い、他国の侮りを招くというようなことがあれば、日本の国際的信威を落とすこととなる。

そして又、この問題は本来ならば外交問題化するような事柄ではないが、既に昨年来先方から外交上に取り上げて来ている。これを見てなかには恐れをなしている向きもあるが、ここに於て若し日本外交が、過去にこだわって現在を主張し得なかったならば、両国国交に進展はなく、そうした外交は外交とは言い得ない。相手国の言い分を聞くだけで、(いたず)らに相手国に迎合して御機嫌をとることが外交ではないと思う。又かつての国連脱退をした松岡外交のように、勉強不足から吾を充分に主張し得ずして、寂しく孤立化することは愚外交の骨頂である。この度の事柄の内容は、我が方に何等臆する処はないのであるから、我が正を正とし、その内容を積極的にねばり強く繰返し説明して、中国のみならず世界に我が主張の正道であることを識らしめ(P・R)、以て主権の尊厳を維持し、国家の威信と矜持を保つべきである。それが一国の外交というものであり、相互理解の平和外交の筈である。






中国は今、対日貿易赤字の増大に苦慮している。そして中国には米国の場合と違い、その工業力の低さから到底日本には太刀打ちできないという苛立ちがある。更にこの貿易赤字は、今後も相当長年月に亘って累積増大を続けることが予想される。従ってこの問題は中国にとって重大な政治問題なのである。

それと共にこの経済問題は中国国民の反日感情をたかぶらせる大きな原因である。既に昨年(昭和60)十月十六日、四川省成都市に於て、「日本の経済侵略反対」「日本商品ボイコット」(排貨)を叫んで『反日デモ』が行われ、一部が暴徒と化し略奪破壊を行うなどして、多数が武装警察隊に逮捕されるという事件が起きている。かつて半世紀前にもこうした排貨運動が排日運動へと進展して、干戈(かんか)を交える不幸な事態を生起する一原因となった歴史がある。当時も日本財閥の中国進出が大きかったのである。

こうした経済問題と靖国神社問題とは凡そ性質の違う問題であって、同一机上に論ずべきものではないが、中国はこの二つをからませて日本政府に迫っている。”見事な?”外交戦術と言わざるを得ない。

靖国神社問題の如く、他国の宗教・内政に容喙するような事柄は、仮令(たとえ)国連に持ち出しても取り上げられもしないような不当な要求であって、このような問題は毅然として拒否しても、かつてのような不幸な状態を招来するとは考えられない。然し、経済的進出は戦争惹起の危険性を持つものである。(そしてひとり中・日間に限らず、世界の普遍的問題でもある。)経済の問題は大人(たいじん)の理性を以て平然として甘受し、進出し過ぎているものは後退すべきであろう。そうすれば平和が乱れることはないと思う。半世紀前と同じ愚かな歴史を繰り返してはならない。






色々と蛇足を加えて述べて来たが、靖国神社の本質をよく理解すれば、これが大切な中日友好に何等の妨げともならないことが判る筈である。それをことさらに構えて妨げありとするならば、それこそは日本国民の心情を害し、中日友好を妨げるものである。

昔からよく言われていることであるが、離れることなく付き、付いていても深入りしないことが、漢民族との友好平和を永く保つ”コツ”であるという。今回の問題でも、我が国の自主性や主権の尊厳・国民の熱望などを犠牲にして迄、中国の内政上の要求に応ずるような深入りは禁物である。既に教科書問題で大きな深入りをさせられているのであるが、深入りはエスカレートするのみで、遂には抜き差しならぬ状態に立ち到り、決定的に友好を害することになるであろうことは、容易に想像できるのである。






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