二、大東亜戦争の原因と経過

(三)明治維新と日本の生きる道



日本は明治維新になって、富国強兵策を取って先進国に追求する道を選んだ。薩英戦争や馬関戦争で欧米の強大な軍事力を目のあたりにした日本は、復讐を採らずに、友誼と学習を選んだ。このように帝国主義の鋭い矛先を突き付けられながら,懸命の努力で辛うじて独立を維持し、明治維新を成し遂げた先人達の功績は、実に偉大なものがある。この帝国主義思想が、日本のみならず、世界の先進国の通念として大東亜戦争の終焉まで続いた。

朝鮮半島の静謐が日本の安全に直結していることは今も変わりなく、日清、日露戦役は、半島を支配せんとする清、露両国の圧力を排除して,国防の安泰を図る為の自衛戦争であって,若し日本がそのどれに敗れても,今日の日本がなかったであろう。この両戦役は両国とも国の総力を挙げて戦った偉大な遺業であることは、今後時世がどう変わろうとも変わることはなく、十把ひとからげの侵略戦争として片付けられるものではない。


戦後、富国強兵策が国家悪のように言われているが、明治維新の時代背景に於いて、日本が欧米先進国に追い着く為の唯一の方策であり、若しその時,欧米屈従の属国方策を取っていたならば,完全なる白人支配の世界となり、勿論大東亜戦争はなかったし、今日の日本の発展もなく、台湾も然りで、諸民族自決の世界も出現しなかった筈だ。また、元来大和民族は無為無策で屈伏するような無気力な民族ではなかったのである。

貧乏国日本は資源が乏しく目立った産業がない。生糸絹織物、陶器、漆器などの家内工業的産品しか輸出するものはなく、しかもそれは最低賃金で牛馬並みの酷使による産物であって、製品の輸出というより、労働力の安売りと言った方がよい。資源と技術は一体不可分で、資源なくして技術の進歩はあり得ない。そしてその資源は悉く白人の手に握られていた。

昭和初期に起こった世界大恐慌の荒波は、経済基盤の貧弱な日本にも押し寄せて、財政は益々悪化し、国民生活の窮乏はその極限に達し、国際情勢は日本にとって不利の度を加えるばかりである。東北地方の娘身売りや、野麦峠の女工哀史もこの頃のことで、日本は経済的に完全に死に体になってしまったわけである。


貧乏人の子沢山で、狭い領土で増えるのは人口ばかり、すぐ隣に横たわる広い大陸に溢出していったのは、追い詰められた日本の取り得た唯一の国策であり、帝国主義世界に於ける当然の帰趨であって、この他に選択の余地は全くなかったことを知らなければならない。今の国民は金を持って世界に進出しておるが、その頃貧乏国民は、身体を張って進出する外なかったのである。

満州事変はこのような時代背景の中に勃発したものである。当時の中国は、戦国時代のように軍閥が跋扈して麻の如く乱れ、殊に満州は匪賊が横行して治安が極度に悪化していた。もともと満州は清民族が住むところで、自らを中華と誇っていた漢民族から見れば、彼等の言うところの「東夷(日本)、西戎、北狄、南蛮」の「北狄」に当たり、化外地とされていた。

当時の日本人は満州を単なる外国とは見ず、日清、日露の両戦役で父祖の血を流した土地であり、海を隔てた庭のように特別の親近感覚を持っておった。昭和十年頃の流行歌を見ても充分に察せられる。



「満州思えば」の一節

あゝまたも雪空 夜風の寒さ

遠い満州が ええ満州が気にかゝる



「満州娘」の一節

私しゃ十六満州娘 春よ三月雪どけに

迎春花が咲いたならお嫁に行きます隣村

王さん待ってゝちょうだいね



台湾の我々までもなつかしく思い出されると共に、当時の日本国民が如何程にあこがれていたかゞ窺われる。世界赤化を目指すソ連の脅威に対する防波堤として、また、重要資源の供給地として、「日本の生命線、満蒙」という言葉は、当時では幼児も知る国家的スローガンであったのである。


満州事変の発端となった柳條溝の満鉄線路の爆破は、確かに日本の謀略であり、今の感覚からすれば許容すべからざる暴挙ではあるが、ここに満漢日蒙鮮の五族協和の王道楽土を築こうという石原莞爾氏の計画は、決して場当たりの思いつきや空想ではなかった。その後一旗組の心ない日本人の為に、必ずしも彼の理想通りには運ばなかった点もあるが、以前と打って変わって治安のよい満州国が育ち、窒息しそうになっていた国民の前途に、光明の窓が開けられたのも事実である。

是非善悪は飯の食える人の戯言であって、白人万能の帝国主義の世界に於いて、これが経済的に行き詰まった貧乏国日本の唯一の生きる道であり、国民は喜び勇んで新天地満州に進出して行った。この時代背景を抜きにして、現在の豊かな日本の感覚で満州進出を論ずるから、歴史が歪んで見えてくるのである。

今でこそ侵略と言われていることも、当時に於いては海外発展であり、雄飛であり、青少年の血湧き肉躍る壮挙であり、また、その頃の日本国民は、国の為一身を犠牲にすることを厭わぬという気概を持った国民だったのである。


鎖国―明治維新―富国強兵策―日清日露戦役―列強国の仲間入り―第一次世界大戦後の世界大不況―日本経済の行き詰まり。支那事変も大東亜戦争もこの延長線上に起こったものである。遠大な理想と目標を持って船出したものの、世界情勢の荒波の中、とりわけ白人支配の世界での舵取りは容易ではなく、恰も大河の流れに翻弄される笹舟のように行き着く先を選ぶことは出来なかった。それが抑々日本を大海に押し込んだ原因と言えよう。


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