満州国誕生前後の
満州と中国の状況





孫・・・大東亜戦争も支那事変も、日本が他国を侵略し ようとして始めた戦争でないことは分ったけれど、大 体何故日本の軍隊が、他国である中国になど駐屯して、 演習などしていたのかなあ。僕たちから見ると、そこ がどうも分らないんだけれど。


私・・・そうかも知れないね。しかし、それはみんな日 本と中国との間の政府間の協定にもとづいて行なわれ たことで、日本軍が勝手に駐屯したわけではないんだ よ。



孫・・・だけど何故中国はそんな協定を受け入れたんですか。


私・・・満州事変というのを知っているだろう。それに ついてはあとでまた話そうと思うけれども、とに角そ の結果として、昭和七年三月には満州国という新しい 国が誕生した。満州国というのは今の中国の東北だが、 元々ここは漢民族とは違う満人が住んでいた所で、そ こへ漢民族や朝鮮人や日本人や蒙古人が入って来て、 一緒に住んでいたわけさ。満州事変が起った頃は、匪 賊と言って山賊のような者の集団があちこちに跋扈し て、良民の財産や生命を奪い、安心して生活できる状 態ではなかった。無論、中国の国民政府の統治も満州 までは及ばず、ほとんど無法状態だったと言ってよい。

だから五族協和を旗印にして満州国が誕生し、八月 には略々匪賊の掃蕩も完了して、満州に住む良民は初 めて安堵の胸を撫でおろしたわけさ。

満州国と中国との国境は万里の長城としていたわけ だが、中国政府は満州国を認めようとせず、万里の長 城という軍事的に有利な陣地に拠って、絶えず日本軍 に攻撃を加えて来て、日本軍にも多数の戦死者を出す ようになったので、やむを得ず長城線を越えたわけだ。 しかし日本は不拡大方針をとっていたので、停戦協定 を結んで非武装地帯を設け、これで何とか国境も安泰 かと思われた。

しかし中国軍は停戦協定を守らず、日本軍がさがる と、中国軍はそれをよいことにしてまた攻撃して来る というようなわけで、その後も二回位協定を結んでい る。当時中国では排日運動が盛んで、政府もむしろそ れを煽るような風であったが、中には親日的な人も結 構居て、この前話した殷汝耕氏が委員長となって、昭 和十年十一月に北京の東の通州に南京の国民政府から 独立した自治委員会が発足した。気の毒なことに昭和 十二年七月二十九日の通州事件で殷汝耕氏は拉致され、 折角の親日政権は潰れてしまったけれどね。

日本としては、何としてでも満州国が中国からの脅 威を受けることなく、安泰に育ってほしかったわけだ し、また中国に住む沢山の日本人の生命、財産を守ら なければならなかったわけさ。

中国人に排日の気運が強く、治安が悪い状況下では、 協定にもとづいて日本軍を駐留させることもやむを得 なかったのではないかな。中国だって日本側の強い申 し入れに対して、協定をのむほかなかっただろうよ。



孫・・・それにしても何で中国人はそんなに排日排日を 叫んだんですか。


私・・・それには色んな理由があると思うね。一つには 日本人の態度にも問題があったと思うよ。日本人は明 治維新以来どんどん西洋文明を取り入れて、文化的に も軍事的にも近代国家となることに成功した。それに 対して中国は内輪もめに明け暮れ、文化水準が日本よ り遥かに遅れていた。日本人の心の中に、欧米を尊敬 し、中国や朝鮮を軽侮する心がなかったとは言えない ね。まして中国に渡った者の中には、日本で食いつめ て、中国で一旗挙げようというような、どちらかとい うと余り好ましくない日本人が沢山居たと思うね。そ ういう人達の言動が、中国人の間に排日の気運をつく り出したとも言える。



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