戦後の風潮






昭和四十五年の春のある日、私は戦没者遺族会の役員として、会の用件で一軒の遺族の家を訪ねた。そこは兄弟二人の戦死者を出していて、弟のほうは私の小学校同窓生であった。今は兄のほうの未亡人K・Nと遺児の一人が在った。私はその遺児から次のような問いかけを受けた。

「私のお父さんは、何故あのようなつまらない戦に行って死んでしまったのだろう。犬死をしただけではないか・・・」と。

この言葉を聞いた私の胸は、死んだこの娘の父の魂の(おも)いに想いを致し、締めつけられるように、又張り裂けるように痛んだ。我が子にこのような思いをさせている父の魂の泣き叫ぶ声が聞こえるようであった。如何に盛大な慰霊祭が催されようとも、どのような高僧の読経があげられようとも、この父の魂を慰めることは出来ないと思った。

私はこの遺児に、当時置かれていた日本の立場や、日本から見た大東亜戦争の意義を説明して聞かせたかった。そうすれば、この遺児の胸裏に、父の死に対する価値観が生まれ、その胸中は晴れ晴れとしたものになるであろうに・・・、そして父の魂も安んじたであろうに・・・、と思った。

だがその説明は短時間のうちに出来るものではない。私は、「あなたのお父さんは、よいと信じて懸命に戦い、愛する祖国のためにその身命を捧げて悔いられなかったと思う。何ものにも替え難い生命を捧げることの何と尊いことでしょう。キリストも、愛するものの為に命を捧げることの尊さを教えております」と。私はこの場合、これくらいのことしか言えなかった。

この遺児のような思考のあり方は、一人この子だけではなく、誤れる東京裁判や占領政策に基づく戦後教育に翻弄された悲しい戦後の風潮である。






()つて私は、「きけわだつみのこえ」を読み始めたが、これはおかしい、何かが抜け落ちている。これは特攻隊員達の魂のほんとうの声ではない。何かが間違っている。これでは彼等の魂を傷つけることになると思った。自分の過去の見聞や経験とは、余りにも大きな違いがあったのである。そして、これも占領政策の一つ、日本民族骨抜き作業の教育の一環ではなかろうかと思い、少し読んだだけで投げ出してしまったことがあった。

そして昭和五十七年八月二十二日の日本経済新聞にこの編者の言葉が載っていた。それを読んで「ああやっぱりそうだったのか」と、豁然(かつぜん)とした気持ちとなった。その新聞記事は次のとおりである。『この本(きけわだつみのこえ)の前身の「はるかなる山河に」・・・という文集に、例えば「八紘一宇、萬世一系、七生報国、天皇陛下萬歳、九段の社頭で会おうよ」というような言葉がないのは、当時CIE(GHQの民間情報局)に原稿を持参した時、一々削除を命ぜられた。・・・検閲があった。・・・日本語の達者な二世が応対し、一週間くらいで削除部分に朱筆を入れた原稿を返された。

削除のない原稿を探すのが難しい位で、いっそ出版をやめようかとさえ思った。・・・そして翌年、より多くの手記を集めた拡大版を編集し、表題を「きけわだつみのこえ」とした。その時の検閲は・・・自主検閲であった。・・・禁じられている文句は判っていたので・・・今となっては残念に思います。・・・(この検閲の事実を発表することによって心の曇りも晴れ)・・・鎮魂の思いをあらたにしています。・・・以上。』

即ち、『きけわだつみのこえ』は戦後風潮に大きな影響を与えているのであるが、編者はそれがほんとうのこえではなく、戦後の占領軍の教育政策の一環に組み込まれていたものであることを訴えているのである。






昭和五十八年十二月四日の同じく日経新聞に「人間魚雷」の著者、鳥巣建之助氏の言葉が載っていた。

「特攻は最大の愚行であり、特攻隊員の死は犬死以外の何ものでもなかった。」という考え方が戦後永く続いていますが、本当にそうでしょうか。

二十数年前に、人間魚雷回天の映画を見ましたら、出撃前夜に、特攻隊員がヤケ酒を呑んで泣いているんです。(こんなことは絶対に無かった)。これはいけないと思いました。真実を書き残しておかないと、彼等の霊は浮かばれないと思いまして、細々と書き始めたのです。神風や回天などの特攻精神は・・・(新約聖書にもあるように)・・・まさに自己犠牲そのものであり、至純至高の愛であった。・・・(特攻隊のみならず)とことんまで頑張った人達が居たからこそ、あのような終戦が迎えられたのであって、和平派(降伏派)が前面に出過ぎていたら、ああはならなかったでしょう。あれは明らかに(無条件ではなく)有条件降伏ですよ」と。

即ち、後段の終局的戦況下に、強大な敵兵力に対し、蟷螂の斧にも等しき戦力となり(なが)らも、四千三百有余名の航空特攻をはじめとする陸海諸隊の特攻・玉砕抗戦は、サイパン・沖縄の県民の犠牲的奮闘と共に、世界を震撼せしめ、本土上陸作戦を企図する米軍をしてこれを躊躇せしめ、以て外交交渉の時間的余裕を稼ぎ、(かつ)これを有利ならしめ、米軍をして平和的進駐を約せしむることとなり、国体・政治機関・司法警察機関等々日本復興の基礎的条件をその(まま)存続し得た有条件だったのである。

そして同紙記者の言葉が次のように書き添えられていた。「戦後の風潮は、あらゆる種類の崇高なものを、人間性という美名のもとに、卑近な日常性に引きずり下ろしてしまった。そのために、たった三十八年前のことが、あたかも神話的叙事詩のように見えるのだから、不思議でもあり皮肉なことだ」と。






私も終戦の翌日、戦隊長室(110FR草刈武雄少佐)に在って、次のような秘密使令を受けていたことを忘れない。即ち「敵が条約通りに平和的に進駐して来ればよし。若し無法な上陸作戦を行うようなことがあれば、我が戦隊は全力を以って特攻を行なう。依ってその攻撃計画に万全を期せよ」と。戦後最古参のパイロットとして、この指令を受けた私は、今までの特攻隊の戦訓に学び、新鋭機を使っての、夜間必成の、しかも出来得れば反復必成を期し得る魚雷特攻の難しい策を無心の境地で練っていた。今の人々にこういう話をしても、その心理を笑殺する人の多い戦後の風潮である。

こうした戦争犠牲者の話が出ると、よく引合いに出される言葉が与謝野晶子の詩の一節である。<君、死にたもうことなかれ・・・親は刃をにぎらせて、人を殺せと教えしや、人を殺して死ねよとて、二十四までそだてしや>こうした考え方は特攻隊員や決死隊員の崇高な『公』に対する忠誠心・犠牲心・無我の愛(仏とキリストの教え)などとはほど遠い、我がことばかりを考えた我利我利のものであり、前記新聞記者の言葉の如く、人間性という美名のもとに卑近に引きづり下ろされてもてはやされた、凡そ崇高さなどのかけらほども無いものと言い得るものであろう。誰一人として死に度い者はない。誰一人として人を殺し度い者はない。だがそれだけでいいのであろうか。誰もが命は最大限に惜しむものであろう。






私は戦後(おも)い続けて来たことがある。それは『靖国の英霊と化した多くの戦友に報ゆるに、何をもってなすべきや』。又、『日本の歴史が、そして戦友たちの遺業が、このような理解のされ方の侭で後世に伝えられて(しま)っていいのだろうか』。ということであった。そして、生き残った者が英霊に報ゆるには、その死が犬死などではなかったと、遺志・遺業を正しく顕彰し、且継承することであると思っていた。(これ)を以って靖国の魂達に捧げることが出来たならば、大いに報ゆることが出来ると共に、日本の歴史に誤りなからしめんが為の一助ともなり得、()いては次代の日本人の心の糧にもなると思われるのであった。

戦争を忘れてしまいたいような戦後の風潮である。果してそれでいいであろうか。勿論、戦争を礼賛するような人は一人もいない。戦争は絶対にあってはならない。決してやってはならないことは、苦しく悲惨な戦場を体験した者ほど強く厳しく決意を新たにする処ではあるが、(しか)しそれは理想的希望であって、それを現実的希望となし得るや否やは甚だ疑問であると思うのである。戦争は有るにしろ無いにしろ、今の時代にあっては決して忘れていてはならないものであろう。






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